空気に、少しだけ塩の匂い【工房時間】

糊伏せをしたところが守られます
Photographs by Keita Teruya

台風の前に

台風が近づいています。海では、もう波が立ち始めています。

一昨日、朝早く釣りに出かけると、沖縄の海はすでにその気配を感じ取っていました。空はまだ青く、いつもと変わらないように見えましたが、リーフの外側では波が高くなり、魚たちもどこか落ち着きなく泳いでいます。潮の匂いも、いつもより少し強く感じました。それでも島の中へ戻ると、蝉はいつものように鳴き、子どもたちは笑い、夏の日常が流れています。大きな変化の前ほど、自然は静かなのかもしれません。海の向こうで何かが動き始めていても、島の暮らしは、今日もいつも通りに続いていきます。

波は、毎日変わります。今日穏やかだった海が、明日には牙をむくこともあります。海の上で仕事をする人は、みんなそれを知っています。だからこそ船には、羅針盤が必要です。どれだけ波が変わっても、行き先を見失わないための、たった一つの指針。

工房も、同じなのだと思っています。時代は、海のように毎年少しずつ表情を変えていきます。着物を着る機会は減り、伝統工芸を取り巻く環境も、私が子どもの頃とはまったく違うものになりました。それでも、変化そのものを怖がる必要はないのだと思うようになりました。波の変化を怖がるのではなく、羅針盤さえしっかり持っていれば、どんな海でも進んでいける。組織にとっての羅針盤とは、理念なのだと思います。理念がないまま変化の波にのまれてしまえば、どこへ向かっているのか、誰にも分からなくなってしまいます。逆に、進む方向さえはっきりしていれば、波の高さや向きが変わっても、船はちゃんと進んでいけるのだと思います。

私が工房を継いだのは、35歳のときでした。それから13年、ずっと考え続けてきたことがあります。祖父が終戦直後に見た、焼け野原の景色。そこから紅型を立て直してきた時間。そうしたものを受け継ぎながら、この工房がどこへ向かうべきなのか、自分なりの羅針盤を、少しずつ探し続けてきました。

けれど、その羅針盤は、私一人で作ったものではありません。

春と秋、年に二回、職人一人ひとりと面談の時間を持っています。一人あたり、だいたい一時間。仕事の進み具合を確認するための時間、というよりは、今どう感じているか、何につまずいているか、これから何をやってみたいか、そうしたことをゆっくり聞かせてもらう時間です。最初は、私から一方的に工房の方針を伝えるだけの場になってしまうこともありました。けれど回を重ねるうちに、職人たちの方から、思いがけない言葉が出てくるようになりました。「もっとこの図案を大切にしたい」「後輩にきちんと教えられる自分でありたい」。そうした一つひとつの言葉が、少しずつ積み重なって、今の理念の形になっていきました。ですから、これは「代表が決めた理念」ではありません。「みんなで、少しずつ育ててきた理念」なのだと思っています。

そして、私にはもう一つ、守ってほしいものがあります。それは、琉球の文化だけではありません。一緒に働く仲間、一人ひとりの想いです。

糊を落とし 洗い立ての布を干している様子
すり潰した大豆を濾しています

私は子どもの頃、仕事とは苦しいものだと思っていました。社会とは、我慢する場所。大人になるとは、自分を削ること。そんな印象を、ずっと持っていました。工房で働く大人たちが、時折疲れた表情を見せる姿を見ていたからかもしれません。代表になってからも、その印象を裏切るような日々ばかりではなく、正直、胸が苦しくなる日が何度もありました。売上のこと、納期のこと、人を育てることの難しさ。眠れない夜も、一度や二度ではありません。

それでも、毎日工房で働く職人たちを見ていて思うのです。人は、好きなことに真剣になっているとき、苦しいだけではありません。少しずつ、自分自身が育っています。糊を置く手つきが、半年前より確かになっている。色を選ぶときの迷いが、少しずつ減っている。そうした変化を目の当たりにするたびに、仕事とは、削られるだけのものではないのだと、気づかされます。技術が伸びるということは、同時に、人としても少しずつ耕されていくということなのかもしれません。だからこそ私は、この工房で働く一人ひとりが、自分自身を耕していけるような場所でありたいと思っています。

Photographs by Keita Teruya
Photographs by Keita Teruya
Photographs by Keita Teruya
Photographs by Keita Teruya
Photographs by Keita Teruya
Photographs by Keita Teruya
Photographs by Keita Teruya
Photographs by Keita Teruya

工房は、作品だけを作る場所ではありません。人が育つ場所です。

昨日より一つ、筆が上手になった。昨日より一つ、色が分かった。昨日より一つ、仲間を助けられた。そんな小さな積み重ねが、十年後の職人を育てます。型を置く手、糊を伏せる手、染める手、水にさらす手。若い手が、少しずつ確かな手に変わっていく。その過程を、私はこの工房でずっと見てきました。一枚の布が仕上がるまでには、何人もの手が関わります。その一つひとつの手の中に、それぞれの成長の時間が積み重なっています。

このホームページでは、たくさんの職人の写真を載せています。作品だけを見ていただくのではなく、その作品を生み出している人の時間も、皆さんに見ていただきたいからです。写真の向こうにいる一人ひとりの表情や手つきから、この工房で積み重ねられてきた時間を、少しでも感じ取っていただけたら嬉しく思います。

早く染める人。丁寧に型を置く人。色を考える人。新しい図案を描く人。それぞれが違う得意を持ち、違う役割を持っています。誰か一人がすべてをこなせる必要はありません。むしろ、それぞれの違いがあるからこそ、一枚の紅型は生まれます。その違いを認め合いながら、一人ひとりが自分自身を耕していく。そんな工房でありたいと思っています。

台風は、これからやってきます。それでも、この静けさの中で、私たちはまた次の季節に向けて、一つひとつの仕事を積み重ねていきます。

風鈴仏桑花

城間栄市プロフィール 

紅型に、時間と祈りを宿す

私は紅型を、単なる染色技法ではなく、
沖縄という土地で積み重ねられてきた時間や祈り、
そして暮らしの感覚を受け止める「文化の器」だと捉えています。

布に色を置くという行為の奥には、
自然へのまなざし、人への想い、
そして生き方そのものが静かに重なっています。
その感覚を、できるだけ正直に、今の時代の言葉と形で手渡していくこと。
それが、私が紅型と向き合い続ける理由です。


生い立ちと紅型との距離

1977年、沖縄県生まれ。
城間びんがた工房十五代・城間栄順の長男として育ちました。

幼い頃から、工房は日常の延長線上にありました。
染料の匂い、布を干す風景、
職人たちの背中や交わされる何気ない会話。
それらは特別なものというより、生活の一部として、自然に身の回りにありました。

本格的に工房に入り、父のもとで修行を始めたのは、
沖縄県芸術祭「沖展」への初入選をきっかけとしています。
紅型を「受け継ぐもの」としてではなく、
自分自身の人生として引き受ける覚悟が、
そのとき初めて定まったように思います。


外の世界で学んだこと

2003年からの約2年間、
インドネシア・ジョグジャカルタに滞在し、
バティック(ろうけつ染)を学びました。

異なる気候、異なる宗教観、異なる生活のリズム。
その中で工芸がどのように根づき、人々の暮らしと結びついているのかを、
現地での生活を通して体感しました。

この経験は、
「伝統を守ること」と「変化を受け入れること」は、
決して相反するものではない、
という確信を私にもたらしました。


受賞・出展についての考え方

これまで、沖展、日本工芸会、西部伝統工芸展、
MOA美術館岡田茂吉賞など、
いくつかの評価や賞をいただいてきました。
また、文化庁主催の展覧会や、
「ポケモン工芸展」など、国内外に向けた企画展にも参加する機会を得ています。

こうした節目を迎えるたびに、
私自身の評価以上に、
紅型という存在を知ってもらう機会が広がっていくことに、
大きな喜びを感じています。

一つの作品が、
「沖縄にはこういう染め物があるのですね」
という小さな気づきにつながる。
その積み重ねこそが、紅型の未来を静かに支えていくのだと感じています。


制作について

制作では、伝統的な技法を大切にしながらも、
その時代、その感覚にしか生まれない表現を探り続けています。

代表作の一つである紅型着物《波の歌》では、
沖縄の海を泳ぐ生き物たちの姿を、
藍色を基調に、リズムと奥行きを意識して表現しました。

新しさを声高に主張するのではなく、
布に触れた人が、
どこか懐かしさや安心感を覚えるような仕事を目指しています。


今、そしてこれから

現在は、
城間びんがた工房十六代代表として制作を行いながら、
日本工芸会正会員、沖展染色部門審査員、
沖縄県立芸術大学非常勤講師としても活動しています。

これらの役割もまた、
紅型を「閉じた世界」に留めず、
次の世代や、まだ出会っていない人たちへと
静かにつないでいくための一つの手段だと考えています。

これからも、
展覧会やさまざまな協働を通して、
紅型という文化に触れる“入り口”を、少しずつ増やしていきたい。
それは広げるためというより、
必要な場所に、必要なかたちで、そっと灯りを置いていく
そんな感覚に近いものです。


おわりに

公式ホームページでは、
紅型の歴史や背景、制作に込めた考えを、
少し丁寧に言葉にして残しています。

Instagramでは、
職人の日常や工房の空気、
沖縄の光や緑の中で息づく紅型の表情を、
より身近な距離感でお伝えしています。

どちらも、紅型を「特別なもの」にするためではなく、
今を生きる私たちの暮らしと、
静かにつながる存在として感じていただくためのものです。

この場所を訪れてくださったことが、
紅型との、ささやかな出会いとなれば幸いです。

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