びんがたについて

 
 
 

紅型という文化 〜色と型がひらく、琉球の対話〜

紅型は、沖縄を代表する染の伝統工芸です。

その定義は、ルクジューの上で突き彫りされた型紙を用い、型を置き、顔料によって手挿しで色を重ねていく染色技法。
自然由来の色と、手仕事の積み重ねによって生まれるその表情は、古くから琉球王家や士族、さらには海外の人々までも魅了してきました。

ただし、私たちは今、紅型を単なる「技法」や「工芸」としてだけではなく、
**人と人、時代と時代をつなぐ“対話のかたち”**として捉えています。

ひとつの図案が生まれ、型となり、色が入り、布となり、誰かの手に渡る。
その一連の流れの中には、作り手の意思だけでなく、受け取る人の記憶や感情も重なっていきます。

紅型とは、完成されたものというよりも、
関わる人の中で少しずつ意味を変えながら循環していく文化なのかもしれません。

 

紅型の広がりと現在

現在では、紅型は着物や帯といった和装にとどまらず、
日常の装飾品や空間演出(壁掛け、のれん、風呂敷など)へと広がりを見せています。

かつては王族のための特別な染物であったものが、
今では少しずつ生活の中へと入り込み、
それぞれの人の時間や記憶と結びつく存在へと変化しています。

私たちは、この変化を「広がり」としてだけでなく、
文化が新しい文脈の中で呼吸を始めている状態として捉えています。


紅型の特徴 〜環境と交流がつくる色〜

紅型の大きな特徴のひとつは、顔料を用いた発色と、突き彫りによる型の表現です。

また、本土の染織と異なる点としてよく挙げられるのが、
「季節感の扱い方」です。

沖縄は亜熱帯に近い気候であり、四季の移ろいが本土ほど明確ではありません。
そのため、紅型の図案には特定の季節に縛られない表現が多く見られます。

一方で、「雪輪」や「萩」といった本土由来のモチーフ、
「龍」や「鳳凰」といった中国文化の影響を受けた意匠も存在します。

つまり紅型は、
沖縄の自然だけで閉じた文化ではなく、
交流の中で取り入れ、変化し続けてきた表現でもあります。

その背景には、琉球王国が東アジア・東南アジアとの交易の中で
多様な文化と接続してきた歴史があります。

紅型の色や柄は、
単なる装飾ではなく、
**その時代の交流の記憶が重なった“レイヤー”**とも言えるでしょう。

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「びんがた」という言葉

「紅型(びんがた)」という呼び名が広まったのは明治以降とされ、
それ以前は「カタチキ(型付け)」などと呼ばれていました。

ここでいう「紅」は、赤ではなく「色」全体を意味します。
つまり紅型とは、「色」と「型」によって生まれる表現の総称です。

そしてその技法は、型染めにとどまらず、手描きや藍染なども含みます。

このように、紅型という言葉自体もまた、
固定された定義ではなく、
時代とともに少しずつ意味を広げてきたものです。

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紅型への情熱を受け継ぐ——父・栄順の歩みとこれから

私の父、城間栄順は、祖父・栄喜の没後、その想いと仕事を引き継ぎ、城間びんがた工房の15代目として歩んできました。祖父から託された言葉を一つの軸として、工房の環境や設備を整えながら、紅型の技術を磨き、次の世代へとつないでいくことに力を注いできました。

代表的な作品の一つに「海シリーズ」があります。これは父自身が実際に海に潜り、沖縄の海の中で感じた光や色、生命の気配を、そのまま布の上に立ち上げたものです。魚やサンゴを描いているというよりも、そこに流れている“時間”や“呼吸”のようなものを表現しているようにも感じられます。その自然の感覚に寄り添った表現は、多くの方に受け取られてきました。

また、紅型の着物や帯を「和装」として確立していったことも、父の大きな仕事の一つです。顔料が擦れやすいという課題に対して、粒子を細かくし、生地への定着を高める工夫を重ねながら、附下や訪問着といった格式ある装いへと展開していきました。それは単に技術の改善ではなく、紅型が社会の中でどのように存在していくかを問い続けた時間でもあったのだと思います。


91歳を迎えた父と、続いていく仕事

現在、父は91歳。昭和9年生まれで、10歳のときに戦災を経験し、その後、祖父とともに紅型の復興に向き合ってきました。何もないところから仕事を立ち上げていくこと、その大変さと重みを、身体で理解している世代です。

父はよく、「真面目に仕事をしていれば、誰かが見てくれている」と話します。自ら強く発信することは多くありませんでしたが、その分、目の前の仕事に対しては一切の妥協をしない。その積み重ねが、自然と周囲に伝わっていく——そんな在り方を貫いてきました。

また父が大切にしてきたのは、「みんなで技術を守る」という姿勢です。工房には、外には出せない技術や考え方もありますが、一度中に入った人には惜しみなく伝える。共有することでしか続かないものがある、という感覚だったのだと思います。

一人で守るのではなく、みんなで続けていく。
その考え方は、今の工房の空気そのものになっています。


私自身が受け取っているもの

12年前に工房を継ぎ、16代目となってから、父が何を大切にしてきたのかを、少しずつ理解してきたように思います。同時に、自分自身がこの仕事を通して何と向き合い、どこに向かっていくのかを問い続ける時間でもありました。

紅型は、技法としては変わらない部分を多く持ちながらも、その時代ごとに意味や役割を変えてきた文化です。だからこそ、守るだけでもなく、変えるだけでもない、その間にあるバランスを探り続ける必要があると感じています。

現在も父は、後継者の育成に関わりながら、新しい作品づくりに向き合っています。91歳になった今も変わらず工房に立ち続けるその姿は、多くの若い作り手たちにとって、ひとつの基準になっているように思います。


紅型の未来に向けて

いま、紅型は少しずつ新しい広がりを見せています。若い作家たちがコンペティションや展示に挑戦し、それぞれの表現を試みる中で、紅型の可能性は確実に広がっています。

ただ、その広がりは一方向ではなく、さまざまな場所で、それぞれの形で生まれているものだと感じています。

紅型がこれからどのように人々の生活に入り、どのように受け取られていくのか。
それは、私たち作り手だけで決めるものではなく、関わる人それぞれの中で形づくられていくものかもしれません。

だからこそ、この仕事は“完成させる”ものではなく、
関係の中で続いていくものだと思っています。

これからどんな形が生まれていくのか。
その過程に、自分自身も関わり続けていきたいと考えています。

びんがたの作業道具

 
筒 イメージ   
 

終戦直後の知恵と工夫——弾丸から生まれた紅型の道具

紅型の制作には、型を使わずに模様を描く技法や、地染めの際に行う「筒引き」や「糊伏せ」と呼ばれる工程があります。
そのときに使われるのが、「筒」と呼ばれる道具です。形は、ケーキのデコレーションで使う絞り袋のようなもの。手のひらで圧をかけながら、先端から細く均一に糊を送り出していきます。

その先端には、金属製の小さな筒先が取り付けられています。
ほんのわずかな穴の大きさや形状が、線の表情やリズムを決めてしまう、とても繊細で重要な部分です。

この筒先に、かつて「弾丸」が使われていたという話は、今では少し現実味が薄いかもしれません。

終戦直後の沖縄には、生活に必要な道具も材料もほとんどありませんでした。
その一方で、地面には無数の使用済みの弾丸が散らばっていたといいます。

祖父・城間栄喜は、その弾丸を拾い上げ、道具として使えないかと考えました。
本来は破壊のためのものだった金属を、線を描くための道具へと変えていく。

そこには、「ないなら作る」という単純な発想以上に、
状況そのものと向き合いながら意味を転換していく力があったように感じます。

結果として、この弾丸から生まれた筒先は非常に使い勝手が良く、
現在でも真鍮製の筒先として、その形が受け継がれています。


弾丸を道具に変えるということ

この話は、歴史の中の出来事であると同時に、
私自身の記憶の中にも残っています。

小学生の頃、工房で見ていた光景。
弾丸はそのままでは使えず、中に詰まった鉛を取り除く必要がありました。

父がガスコンロの上に弾丸を置き、ゆっくりと熱していく。
しばらくすると、内部の鉛が溶けて、重たく、鈍い光を帯びながら流れ出てくる。

火の匂いと、金属の熱気。
その静かな作業の中に、どこか緊張感があったのを覚えています。

さらに遡ると、戦後間もない頃は砂浜で焚き火をし、その中に弾丸を投げ入れて処理していたそうです。
中には火薬が残っているものもあり、爆発の危険もあったと聞きます。

そうした状況の中で、それでも手を動かし続けた人たちがいた。
道具を作ること自体が、すでに仕事であり、生きるための行為だったのだと思います。


変わるものと、残るもの

時代が進み、素材や道具は手に入るようになりました。
危険を伴う作業も、今ではほとんど行われていません。

けれども、そこで失われていないものがあります。

それは、「使えるものは何でも使う」という発想の根にある、
環境と対話しながらものを生み出す姿勢です。

紅型の技術は、単に手順として受け継がれているわけではなく、
こうした一つひとつの判断や工夫の積み重ねによって形づくられてきました。

何を選び、何を工夫し、どう乗り越えるか。
その連続が、今の仕事の質をつくっています。


道具に残る、もう一つの意味

この弾丸から生まれた道具は、単なる代用品ではありません。

そこには、時代の制約の中で、それでも手を止めなかった人たちの意思が残っています。
そしてその意思は、形を変えながら、今も仕事の中に流れ続けています。

私たちがいま使っている道具のひとつひとつにも、
そうした見えない時間が重なっています。

それを知ったとき、道具との向き合い方も少し変わるかもしれません。

紅型は、布の上に色を置く仕事でありながら、
同時に、こうした記憶や工夫の積み重なりを扱う仕事でもあります。

過去にあった出来事が、今の手の動きにどうつながっているのか。
そしてそれが、これからどのように受け継がれていくのか。

この小さな筒先は、その問いを静かに持ち続けているようにも感じます。

ルクジュー

ルクジュー イメージ

琉球の智恵が生んだ道具「六寿(ルクジュー)」

紅型の型彫りに欠かせない道具のひとつに、「六寿(ルクジュー)」と呼ばれるものがあります。
一見すると素朴な塊ですが、これは沖縄の一番涼しい時期に、豆腐を乾燥させて作る特別な下敷きです。大きさはおよそ10センチ四方。一丁の豆腐が、時間をかけてゆっくりと道具へと変わっていきます。

型紙の下に敷き、刃を入れていく。
そのとき、刃先が当たる感触は、硬すぎず、柔らかすぎず、ほんのわずかな“逃げ”を持っています。

紅型の型彫りでは、線の精度と同時に、刃の状態が非常に重要です。
六寿は油に漬けて保管されることで、刃の錆びを防ぎながら、その切れ味を支え続けます。表面が削れても、また削り直して使うことができる。その繰り返しの中で、道具自体も仕事の一部として育っていきます。

こうした性質を持つ六寿は、琉球時代から現在まで変わらず使われ続けている、静かな基盤のような存在です。


六寿を作るということ——時間と環境との対話

六寿は既製品ではなく、毎年自分たちの手で作ります。
沖縄の冬、一番空気が乾く時期を見極めて仕込み、天日でゆっくりと乾燥させていきます。

およそ一年分として、40個ほどを作りますが、
そのうちの3分の1から半分は、うまく仕上がらず使えなくなることもあります。

気温、湿度、風の通り方。
少しの違いで、乾き方も質感も変わってしまう。

近年は冬でも暖かい日が増え、思うように乾燥できないことも多くなりました。
六寿を作るという行為は、単なる仕込みではなく、
その年の自然と向き合い、調整し続ける仕事でもあります。

そしてこの「毎年作る」という行為そのものが、
琉球時代から続く仕事のリズムでもあります。

道具を買うのではなく、
時間をかけて育て、使い、また次の年に作る。

その循環の中に、技術の継承が静かに組み込まれているように感じます。


六寿の機能と、試行錯誤の記憶

六寿が長く使われてきた理由のひとつは、
その絶妙な弾力にあります。

私自身、作るのに数ヶ月かかることや、
状態によっては腐敗臭の中で作業しなければならないこともあり、
「代わりになるものはないか」と考えたことがあります。

シリコン、ゴム、油分を多く含む石鹸。
さまざまな素材を試しました。

たしかに近い感触のものもありましたが、
刃を入れたときの“抜け”や“返り”がどこか違う。

特に、汗や湿気を含んだときの滑りやすさは、
わずかなズレとなって線に現れてしまいます。

結果的に、「突き彫り」という鋭い刃を扱う作業においては、
六寿の持つサクサクとした感触と、適度な抵抗が、最も安定していると感じました。

この経験を通して思うのは、
先人たちはただ手に入るものを使っていたのではなく、
仕事の精度に対して最適な答えを探し続けていたということです。


小さな道具に宿るもの

六寿は、とても目立つ道具ではありません。
けれど、この小さな塊がなければ、型彫りは成立しません。

目に見える作品の奥には、こうした道具の存在があり、
さらにその奥には、それを作り続けてきた時間があります。

私たちは今、その上に立って仕事をしています。

効率や新素材が求められる時代の中で、
こうした道具の価値をどう捉えるのか。

それは単に「古いものを守る」ということではなく、
なぜそれが残ってきたのかを理解することだと思っています。

六寿に刃を入れるたびに、
その問いを、静かに投げかけられているような気がします。


未来へつないでいくために

これからも、六寿を作り続けていきます。
うまくいかない年もあると思います。

それでも、その揺らぎを含めて引き受けながら、
仕事のリズムを続けていくこと自体に意味があると感じています。

技術は、手順だけではなく、
こうした環境との関わりや、時間の積み重ねとともに受け継がれていきます。

この小さな道具が、これからどのように使われ、
どのように変わっていくのか。

その過程に、自分自身も関わり続けていきたいと思います。

コチニール

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琉球の交易がもたらした「コチニール」——色に宿る時間と選択

深く、わずかに紫を含んだ赤。
光の当たり方によって表情を変えるその色は、どこか静かでありながら、強い存在感を持っています。

その色のもとになるのが、「コチニール」です。
サボテンに寄生する虫を乾燥させて得られるこの染料は、煎じることで鮮やかな赤の顔料となり、日本画にも使われてきました。

現代でも貴重な材料ですが、交易の盛んだった琉球王国の時代には、中国を経由してもたらされる重要な染料のひとつでした。
海を越えて運ばれてきたこの色は、単なる材料ではなく、異なる文化や技術が交差する中で受け取られてきたものでもあります。


「綿臙脂」というかたちで届いた色

琉球王国時代、コチニールは粉末の状態ではなく、「綿臙脂(わたえんじ)」というかたちで運ばれてきたとされています。
木綿に色素を染み込ませた状態で届けられ、それを煎じて色を取り出す。

なぜこの形だったのか。
保存のためか、運搬のためか、それとも扱いやすさのためか。

理由ははっきりとはわかりませんが、そこには
色をどう扱うかという、当時の知恵と工夫が確かに存在しています。

琉球王朝の記録には、その輸入量も細かく記されており、
この色がどれほど貴重なものであったかが伝わってきます。


限られた色の中での判断

当時、コチニールは自由に使えるものではありませんでした。
王府の管理のもと、職人に支給される量は厳しく制限されていました。

まずは小さな布で試し染めを行い、
その結果を見て、必要な分だけが渡される。

つまり、色を使うという行為そのものが、
すでにひとつの「判断」を伴う仕事だったのです。

どこに使うか。
どれだけ使うか。
どのような色として立ち上げるか。

限られた条件の中で、最適な選択を重ねていく。
その積み重ねが、紅型の色を形づくっていきました。


極限の中での工夫と、その危うさ

こうした厳しい管理の中で、
一部の職人たちは、材料を確保するための方法を考え出します。

顔料を飲み込み、必要量以上に使ったと報告する——
現代では考えられないような行為ですが、それほどまでに材料は貴重であり、
同時に「もっと良いものを作りたい」という思いが強かったとも言えます。

ただ、その背景には大きな危険もありました。

当時は科学的な知識が十分ではなく、
ヒ素を含む「石黄」や、水銀を含む「銀朱」といった染料も使われていました。

それらの危険性を知らないまま扱い、
場合によっては体内に取り込んでしまう可能性もあった。

色をつくるという行為が、
命と隣り合わせにあった時代でもあったのです。


揺らぐ品質と、向き合い続ける仕事

時代が進み、コチニールは海外から輸入されるようになりました。
かつてはメキシコから入ってくるものが多く、その品質にはばらつきがあったと聞きます。

同じように見えても、発色が違う。
思った色が出ない。
年によって微妙に変わる。

特に印象的なのは、届いた商品の成分表がなぜか剥がされていることが多かった、という話です。
理由は分かりませんが、その不確かさの中で、職人たちは毎回色を確かめながら使っていました。

現在では、京都の日本画材料店で比較的安定した品質のものが手に入るようになりました。
それでもなお、完全に同じ色は存在しません。

だからこそ、毎回の調合や判断が、
そのまま作品の表情へとつながっていきます。


色の中に残っているもの

紅型の色を見たとき、
そこにあるのは単なる「美しさ」だけではありません。

その色がどこから来たのか。
どのように選ばれ、どのように使われてきたのか。

その背景には、交易の歴史があり、
制限の中での判断があり、
危険と隣り合わせの中での工夫がありました。

色は、記録されない時間を含んでいます。


未来へつないでいくために

いま私たちは、安定した材料を使いながら仕事をすることができます。
けれど、その背景にあった不確かさや緊張感が、完全に消えたわけではありません。

むしろ、
「どのように選ぶか」
「どのように使うか」
という問いは、今も変わらず続いています。

紅型の技術は、手順としてだけではなく、
こうした選択の積み重ねとして受け継がれてきました。

これから先、どのような色が生まれていくのか。
その色に、どんな時間が重なっていくのか。

コチニールというひとつの染料は、
その問いを静かに含み続けているように思います。

コチニール粉末

コチニール粉末 イメージ

紅型の赤に欠かせない色の原料です。

この粉末をもとに様々な色あいを出していきます。これと、本藍を混ぜるとキキョウ色。黄色に混ぜて、赤みを出したりします。