色に込められた祈り~紅型がつなぐ過去と未来~
2025.01.18
戦後80年、祖父が見た沖縄と私が感じる平和の奇跡
戦後80年と聞いても、1977年生まれの私には正直なところ実感が湧きません。私は戦争を知らない世代であり、当事者ではないからです。
しかし、私の父・栄順は昭和9年生まれで、戦後を迎えたのは10歳前後。祖父・栄喜は38歳で終戦を迎えています。そう考えると、戦争の記憶を鮮明に持つ「完全なる当事者」は祖父の世代なのだろうと思います。
私自身、戦時中の沖縄の様子を知る機会は資料の中でしかありません。それでも、ふとした日常の中で戦争の爪痕と沖縄の復興の奇跡を強く感じる瞬間があります。
夕日が沈むとき、穏やかに輝く首里の街並みを見て、「本当にここで、あれほど恐ろしい出来事があったのか?」と不思議に思うことがあります。そして、この美しい沖縄が、かつて戦火の厳しい地であったことを考えると、ここに平和が戻ったことは奇跡ではないかとさえ思うのです。

戦後の苦境と工芸の再生
今回添付している画像の中には、戦後の苦しい時代に家業を守るために作られた葉書があります。この葉書は、祖父・栄喜が交流のあった阿部栄四郎先生(島根県で和紙を作る人間国宝)からいただいた和紙を使って制作されたものです。
当時、沖縄は戦争による甚大な被害を受け、物資もなく、人々は生活することさえ困難でした。そんな中、唯一お金を持っていたのは駐留していたアメリカ人でした。祖父は彼ら向けにポストカードを作り、沖縄にかつてあった文化をデザインとして取り入れ、それを紅型の技術で染めて販売しました。写真には、当時のポストカードと、その制作に使われた型紙が残されています。

また、もう一つの写真には「筒描き」と呼ばれる技法で使用された道具が写っています。これは型紙を使わずに直接糊を描くための道具で、先端には鉄砲の弾が使われています。戦後、何もない時代に工夫しながら制作を続けた証です。80年前に実際に使用されていたものが今も残っているという事実に、祖父たちの努力と情熱が感じられます。

戦後の暮らしと父の記憶
そんな祖父のもとで育った父は、戦争の話をほとんどしませんでした。しかし、私が工房を継ぐことになり、家族の歴史や祖先の想いを知ろうとする中で、少しずつ過去の話をするようになりました。
父の記憶によると、戦後すぐに家族は首里に戻ることができず、アメリカ軍の管理下にあったため、巨大な野営用のテントの中で4世帯が共同生活をしていたそうです。そしてようやく故郷に戻ったとき、住まいは台風が来るたびに屋根が飛んでいくような簡素なものでした。
台風の知らせがあると、家族は急いで衣類をドラム缶に詰め、それをひっくり返して大きな石を置いて飛ばないように固定し、その上にしがみついて耐えたそうです。そして、祖父は紅型の復興に全てを捧げていたため、生活の厳しさにもかかわらず、「紅型以外の仕事をするな」と家族に厳しく言い聞かせていたといいます。
そんな中、高校2年生だった父は、家族のためにどうにかして温かい毛布を手に入れたいと考えました。祖父に隠れて近くの本屋でアルバイトをし、ようやく自分の力で毛布を買うことができたとき、それは本当に幸せな瞬間だったと語っていました。
しかし、しばらくして、その毛布は祖父の寝タバコによって燃えてしまったそうです。父は「やっと手に入れたものが一瞬で灰になった」と、そのときの悔しさを笑い話のように話していましたが、当時の厳しい暮らしがどれほど過酷だったのかを物語るエピソードです。
受け継がれる想いと未来へ
祖父は、戦争で妻を亡くし、男手ひとつで子どもを育てながら、工芸を守り続けました。その時代の厳しさを想像すると、私たちが今こうして平和な沖縄で紅型を作り続けられることがどれほど幸運なことかを実感します。
祖父の世代が命をかけて復興を果たし、父の世代がその道を守り続け、そして今、私の世代が伝統を受け継いでいます。
そして今、首里の街を見渡すと、かつての戦禍の爪痕を感じさせないほど、美しく穏やかな風景が広がっています。祖父はよく「紅型を手に取る人に、背景の苦しさは関係ない」と言っていたそうです。だからこそ、戦争の傷跡ではなく、紅型の色彩や模様に豊かさと優しさを込めることを大切にしていました。
私自身、この土地に根付く紅型という伝統を受け継ぐなかで、祖父や父が何を守ろうとしていたのかを考えるようになりました。それは単なる技術ではなく、沖縄が長い歴史の中で育んできた「認め合う心」や「多様性を受け入れる文化」そのものだったのではないかと思うのです。
沖縄は、さまざまな文化が交わり、新しいものを受け入れながらも、自分たちのアイデンティティを大切にしてきた島国です。祖父や父が大切にした紅型もまた、時代とともに変化しながらも、受け継がれることで新たな価値を生み出してきました。
私も今、その流れの中にいます。紅型を通じて、沖縄の持つ寛容さや、自然と共に生きる感性を表現し、未来へとつなげていきたい。そうすることで、祖父や父が大切にしてきた沖縄の価値観を、これからの時代に生きる人々へと届けられるのではないかと思うのです。
祖父が残した紅型とその技術が、ただの工芸ではなく、沖縄の精神そのものとして未来へと続いていくことを願っています。





(今年1月17日は母の誕生日でした。手前にいるのは父 栄順で、15代目を務めた人です。苦楽を共にしてきた二人の、温かく穏やかなひとときです)


公式ホームページでは、紅型の歴史や伝統、私自身の制作にかける思いなどを、やや丁寧に、文化的な視点も交えながら発信しています。一方でInstagramでは、職人の日常や工房のちょっとした風景、沖縄の光や緑の中に息づく“暮らしに根ざした紅型”の表情を気軽に紹介しています。たとえば、朝の染料作りの様子や、工房の裏庭で揺れる福木の葉っぱ、時には染めたての布を空にかざした一瞬の写真など、ものづくりの空気感を身近に感じていただける内容を心がけています。
紅型は決して遠い伝統ではなく、今を生きる私たちの日々とともにあるものです。これからも新しい挑戦と日々の積み重ねを大切にしながら、沖縄の染め物文化の魅力を発信し続けていきたいと思います。ぜひInstagramものぞいていただき、工房の日常や沖縄の彩りを一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。

城間栄市 プロフィール昭和52年(1977年)、沖縄県生まれ。
城間びんがた工房十五代・城間栄順の長男として育つ。
学歴・海外研修
- 平成15年(2003年)より2年間、インドネシア・ジョグジャカルタ特別州に滞在し、バティック(ろうけつ染)を学ぶ。
- 帰国後は城間びんがた工房にて、琉球びんがたの制作・指導に専念。
受賞・展覧会歴
- 平成24年:西部工芸展 福岡市長賞 受賞
- 平成25年:沖展 正会員に推挙
- 平成26年:西部工芸展 奨励賞 受賞
- 平成27年:日本工芸会 新人賞を受賞し、正会員に推挙
- 令和3年:西部工芸展 沖縄タイムス社賞 受賞
- 令和4年:MOA美術館 岡田茂吉賞 大賞 受賞
- 令和5年:西部工芸展 西部支部長賞 受賞
主な出展
- 「ポケモン工芸展」に出展
- 文化庁主催「日中韓芸術祭」に出展
- 令和6年:文化庁「技を極める」展に出展
現在の役職・活動
- 城間びんがた工房 十六代 代表
- 日本工芸会 正会員
- 沖展(沖縄タイムス社主催公募展)染色部門 審査員
- 沖縄県立芸術大学 非常勤講師
プロフィール概要
はじめまして。城間びんがた工房16代目の城間栄市です。私は1977年、十五代・城間栄順の長男として沖縄に生まれ、幼いころから紅型の仕事に親しみながら育ちました。工房に入った後は父のもとで修行を重ねつつ、沖縄県芸術祭「沖展」に初入選したことをきっかけに本格的に紅型作家として歩み始めました。
これまでの道のりの中で、沖展賞や日本工芸会の新人賞、西部伝統工芸展での沖縄タイムス社賞・西部支部長賞、そしてMOA美術館の岡田茂吉賞大賞など、さまざまな賞をいただくことができました。また、沖展の正会員や日本工芸会の正会員として活動しながら、審査員として後進の作品にも向き合う立場も経験しています。
私自身の制作で特に印象に残っているのは、「波の歌」という紅型着物の作品です。これは沖縄の海を泳ぐ生き物たちの姿を、藍型を基調とした布に躍動感をもって表現したものです。伝統の技法を守りつつ、そこに自分なりの視点や工夫を重ねることで、新しい紅型の可能性を切り拓きたいという思いが込められています。こうした活動を通して、紅型が沖縄の誇る伝統工芸であるだけでなく、日本、そして世界に発信できるアートであると感じています。
20代の頃にはアジア各地を巡り、2003年から2年間はインドネシア・ジョグジャカルタでバティック(ろうけつ染)を学びました。現地での生活や工芸の現場を通して、異文化の技術や感性にふれ、自分自身の紅型への向き合い方にも大きな影響を受けました。伝統を守るだけでなく、常に新しい刺激や発見を大切にしています。
最近では、「ポケモン×工芸展―美とわざの大発見―」など、世界を巡回する企画展にも参加する機会が増えてきました。紅型の技法でポケモンを表現するというチャレンジは、私自身にとっても大きな刺激となりましたし、沖縄の紅型が海外のお客様にも響く可能性を感じています。
メディアにも多く取り上げていただくようになりました。テレビや新聞、ウェブメディアで工房の日常や制作現場が紹介されるたびに、「300年前と変わらない手仕事」に込めた想いを、多くの方に伝えたいと強く思います。