父(栄順さん)と私(栄市)と
2024.10.21
父の時間に、少しずつ近づいていく
父は、毎朝五時に起き、夕方五時には仕事を終える。
その生活リズムを、ほとんど崩すことなく続けてきました。
今年で九十歳になりますが、今でも大きくは変わっていません。
私が生まれたときから、そのリズムはすでにありました。
それ以前のことは知りませんが、
少なくとも私の記憶の中では、
日曜日であっても、祝日であっても、
父は同じ時間に起き、同じ時間に仕事をしていました。
子どもの頃、その姿は特別なものだとは思っていませんでした。
「そういうもの」だと、当たり前の風景として受け取っていたのだと思います。
けれど今振り返ると、
そこには強い意志というより、
もっと静かで、揺るがない“覚悟”のようなものがあったのだと感じます。
父は、語らない職人だった
私から見た父は、
工房の主として、ただひたすら仕事に向かい続ける人でした。
「とにかく、コツコツやりなさい」
「ちゃんとした仕事をしていれば、誰かが見ている」
そういった言葉を、
声高に語ることはほとんどありませんでしたが、
生き方そのものが、そう言っているような人でした。
自分をどう見せるか、
どう伝えるか、
そういったことには、ほとんど関心がなかったように思います。
今で言えば、
ブログも、SNSも、
たぶん必要ないと感じていたでしょう。
ただ、仕事をする。
余計なことは言わない。
評価を取りにいかない。
それが、父のやり方でした。
若かった私と、父の一言
私が二十代の頃、
どうしてもインドネシアに行きたい時期がありました。
アジアの工芸を学び、
沖縄の工芸を、もっと先へつなげたい。
今思えば、ずいぶん熱く、ずいぶん抽象的な話を、
三十分ほど父に語ったのだと思います。
場所は、祖父が住んでいた建物の応接室でした。
父と二人きりで、
私は自分の夢や展望を、一方的に話し続けました。
父は、ほとんど何も言わず、
ただ黙って聞いていました。
そして最後に、こう言いました。
「何を言っているのか、よくわからないけど、
早く寝て、早く起きなさい」
その一言を聞いたとき、
正直、がっかりしました。
あまりにも平凡で、
あまりにも地味な言葉に聞こえたのです。
もっと大きなことを言ってほしかった。
もっと背中を押してほしかった。
若かった私は、
父の言葉の小ささに、勝手に失望していたのだと思います。
二十年かけて、届いた言葉
それから約二十年が経ちました。
私は工房を引き継ぎ、
気づけば十二年が過ぎています。
今の私は、
あのとき父が言った
「早く寝て、早く起きること」
の意味が、痛いほどよくわかります。
ここ六年ほど、
私自身も朝五時に起きる生活を続けています。
無理をして身につけた習慣ではありません。
仕事を続けていく中で、
そうせざるを得なくなった、という方が近いかもしれません。
体を整えなければ、
気持ちが持たない。
気持ちが整わなければ、
布に向かえない。
父が言っていたのは、
単なる生活指導ではなく、
仕事を続けるための条件だったのだと、
今なら理解できます。
理解し合えたかどうかは、わからない
父と私が、
完全に理解し合えているかどうかは、正直わかりません。
今でも、
話が噛み合わないと感じることはあります。
けれど、
少しずつ、
父の立場に近づいている感覚はあります。
工房を預かるということ。
日々の仕事を止めないということ。
誰かの生活や時間を背負うということ。
それらを経験する中で、
父が、なぜ多くを語らなかったのか。
なぜ、余計なことを言わなかったのか。
その理由が、少しずつ体に落ちてきました。
受け取ったのは、言葉ではなく「時間」
父から教わったことは、
具体的な技法でも、
華やかな言葉でもありません。
ただ、
毎日同じ時間に起き、
毎日同じように仕事をする。
その積み重ねが、
結果として仕事を続けさせてくれる。
それを、
言葉ではなく、
時間そのもので見せられてきたのだと思います。
私自身、
これから先、
父のようなやり方ができるかどうかはわかりません。
時代も、環境も、
あまりにも違います。
けれど、
「続けるために、どう生きるか」
という問いに対して、
父が示してきた一つの答えは、
今も、私の足元を静かに支えています。
父の時間を、そのまま真似しなくてもいい
父と同じように生きる必要はない。
そう思っています。
けれど、
父が生きてきた時間の“芯”の部分だけは、
受け取りたい。
派手ではないけれど、
確かに積み重なる時間。
語らなくても、
仕事が続いているという事実。
私は、
その時間の上に、
自分なりのやり方で、
少しずつ言葉を重ね、
少しずつ編集を加えながら、
仕事を続けていきたいと思っています。
おわりに
父は今も、
変わらない時間の中で生きています。
私がその時間に、
完全に追いつくことはないかもしれません。
けれど、
少しずつ、
その時間に近づいている。
そう感じられること自体が、
今の私にとっては、
大きな支えになっています。
仕事は、
一気に理解できるものではなく、
時間をかけて、
体でわかっていくものなのかもしれません。
父の言葉が、
二十年越しに届いたように。



プロフィール|城間栄市
紅型に、時間と祈りを宿す
私は紅型を、単なる染色技法ではなく、
沖縄という土地で積み重ねられてきた時間や祈り、
そして暮らしの感覚を受け止める「文化の器」だと捉えています。
布に色を置くという行為の奥には、
自然へのまなざし、人への想い、
そして生き方そのものが静かに重なっています。
その感覚を、できるだけ正直に、今の時代の言葉と形で手渡していくこと。
それが、私が紅型と向き合い続ける理由です。

生い立ちと紅型との距離
1977年、沖縄県生まれ。
城間びんがた工房十五代・城間栄順の長男として育ちました。
幼い頃から、工房は日常の延長線上にありました。
染料の匂い、布を干す風景、
職人たちの背中や交わされる何気ない会話。
それらは特別なものというより、生活の一部として、自然に身の回りにありました。
本格的に工房に入り、父のもとで修行を始めたのは、
沖縄県芸術祭「沖展」への初入選をきっかけとしています。
紅型を「受け継ぐもの」としてではなく、
自分自身の人生として引き受ける覚悟が、
そのとき初めて定まったように思います。
外の世界で学んだこと
2003年からの約2年間、
インドネシア・ジョグジャカルタに滞在し、
バティック(ろうけつ染)を学びました。
異なる気候、異なる宗教観、異なる生活のリズム。
その中で工芸がどのように根づき、人々の暮らしと結びついているのかを、
現地での生活を通して体感しました。
この経験は、
「伝統を守ること」と「変化を受け入れること」は、
決して相反するものではない、
という確信を私にもたらしました。
受賞・出展についての考え方
これまで、沖展、日本工芸会、西部伝統工芸展、
MOA美術館岡田茂吉賞など、
いくつかの評価や賞をいただいてきました。
また、文化庁主催の展覧会や、
「ポケモン工芸展」など、国内外に向けた企画展にも参加する機会を得ています。
こうした節目を迎えるたびに、
私自身の評価以上に、
紅型という存在を知ってもらう機会が広がっていくことに、
大きな喜びを感じています。
一つの作品が、
「沖縄にはこういう染め物があるのですね」
という小さな気づきにつながる。
その積み重ねこそが、紅型の未来を静かに支えていくのだと感じています。
制作について
制作では、伝統的な技法を大切にしながらも、
その時代、その感覚にしか生まれない表現を探り続けています。
代表作の一つである紅型着物《波の歌》では、
沖縄の海を泳ぐ生き物たちの姿を、
藍色を基調に、リズムと奥行きを意識して表現しました。
新しさを声高に主張するのではなく、
布に触れた人が、
どこか懐かしさや安心感を覚えるような仕事を目指しています。
今、そしてこれから
現在は、
城間びんがた工房十六代代表として制作を行いながら、
日本工芸会正会員、沖展染色部門審査員、
沖縄県立芸術大学非常勤講師としても活動しています。
これらの役割もまた、
紅型を「閉じた世界」に留めず、
次の世代や、まだ出会っていない人たちへと
静かにつないでいくための一つの手段だと考えています。
これからも、
展覧会やさまざまな協働を通して、
紅型という文化に触れる“入り口”を、少しずつ増やしていきたい。
それは広げるためというより、
必要な場所に、必要なかたちで、そっと灯りを置いていく
そんな感覚に近いものです。
おわりに
公式ホームページでは、
紅型の歴史や背景、制作に込めた考えを、
少し丁寧に言葉にして残しています。
Instagramでは、
職人の日常や工房の空気、
沖縄の光や緑の中で息づく紅型の表情を、
より身近な距離感でお伝えしています。
どちらも、紅型を「特別なもの」にするためではなく、
今を生きる私たちの暮らしと、
静かにつながる存在として感じていただくためのものです。
この場所を訪れてくださったことが、
紅型との、ささやかな出会いとなれば幸いです。

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