過去と未来を結ぶ声──幼少期から見つめた紅型の真実

笑い声が紡ぐ記憶──城間びんがた工房が与えてくれた安心感

皆さま、いつも当工房のブログをお読みいただき、誠にありがとうございます。本稿では、私の幼少期の体験を通じて感じ取った紅型文化の内的意義、および工房空間が担う社会文化的役割を改めて深掘りしてまいりたいと思います。紅型が有する歴史的・技術的価値はもちろんのこと、そこに息づく人間関係や場所の空気がどのように伝統を継承しうるのかを論じる上で、少々踏み込んだ観点から整理してみます。


一九八〇年代初頭の工房建設——幼少期における空間の再発見

現在四十七歳となった私ですが、城間びんがた工房が三階建ての施設として竣工したのは今から四十三年ほど前のことでした。祖父の代から連綿と続くこの家系において、父が首里の地で新たに工房を建設した背景には、単なる生産拠点の拡大ではなく、紅型という伝統技法をより総合的に管理・後継育成できる環境を整えようとする意志があったと考えられます。

幼少の私にとって、この建造過程は極めて印象的な出来事でした。コンクリートを流し込む作業音、建材独特のにおい、そして自分の部屋が用意されるという期待感——いずれも子ども心を大いに揺さぶり、自分自身の将来像と空間の構築とが重層的に織り成されるように感じられたのです。結果として、本工房は単なる作業施設にとどまらず、家族が暮らしを営む場としての意味合いも帯び、私にとってはいわば「家族の新時代」を象徴する存在でした。


紅型工房に漂う笑い声と、首里に点在する他工房の静寂の対比

首里には琉球文化を背景とした多様な工芸の工房が散在しています。学童期の私は、通学路の途中にいくつかの工房を見かけるたび、そこにただよう黙々とした集中力に、ある種の畏怖を覚えた記憶があります。むろん、伝統工芸に求められる厳粛性ゆえであり、それ自体は否定されるべきものではありません。しかしながら、幼子にとってその空気はやや敷居が高く映ったのも事実です。

ところが、城間びんがた工房の界隈に近づくと、しばしば活発な談笑や笑声が耳に入ってきました。紅型は長時間の糊置きや細密な彩色を要する、精神的・身体的に負荷のかかる作業であるはずですが、その合間に冗談を交わし合う職人たちの様子がうかがえたのです。まるで張り詰めた糸の緊張を、笑いが一挙に解きほぐしているかのような印象を受けました。この「笑い声が聞こえる工房」という事実は、私の中で「家に帰ってきた」という安堵感を生み出す決定的な要素であり、他の工房との対比で鮮烈に刻まれたのでした。


「仕事は厳しいもの」の先入観を覆した工房の姿

中学・高校へと進学するにつれ、私は「社会における仕事」とはストレスフルで厳粛なものである、という通念を漠然と抱くようになりました。受験や競争が強調される環境下では、働くことに対するポジティブなイメージは得にくかったのです。ところが、城間びんがた工房を目の当たりにして、そうした固定観念が解体されていきました。糊置きや染色といった過酷な工程をこなしながらも、職人たちは決して笑顔を忘れず、相互に助け合っているのです。

紅型は琉球王国時代、王族や士族の礼装として栄え、その歴史的ステータスは極めて高いものです。したがって、職人たちは重い伝統を背負う重圧下にあるともいえます。それにもかかわらず、皆が共に笑い合っている姿は、私にとって「仕事とは単なる苦役にあらず」という重大な示唆を与えるものでした。仲間同士で連帯感を育むことが、厳しい作業を喜びに変えるのだという発見は、当時の私に驚きと尊敬の念を抱かせました。


四十七歳の今、受け継ぐ者としての省察

現在では私が工房を取り仕切る立場となり、日々多面的な意思決定を迫られます。経営基盤の確立、職人の技能承継、さらには紅型が将来的に社会でどのような意義をもつか、といった課題を検討する必要があります。その過程で、困難に直面し気が沈む瞬間も多々ありますが、不思議と工房の空間に戻ると、幼少期に感じたあの“笑い声に包まれる安心感”が脳裏をよぎるのです。

こうした内面の体験は、私が「仕事とは厳しくあるべき」と思い込みがちな思考を和らげ、“仕事こそが人を活かす場”になり得ると信じる基盤になりました。言い換えれば、幼少期に接した「笑い声と真剣さが同居する現場」が、私の人生観やリーダーシップ観を深く形成したといっても過言ではありません。


紅型の文化的意義と工房空間の社会的機能

紅型は長い歴史を背負い、琉球文化を象徴する高度な染織技法として国内外から注目を集めています。ただし、その評価を支えるのはあくまでも、長期にわたり鍛錬を積んだ職人の営みであり、技術的習熟と同時に精神的な豊かさが継承されてこそ真の進化があり得ると考えられます。

例えば、一枚の紅型は、その文様や色彩が王朝文化や庶民生活を映し出し、時代による様式変化も内包しています。その一方で、制作現場が常に重苦しい雰囲気に支配されていたとすれば、新規のデザイン開発や若い才能の参加は阻まれかねません。むしろ、工房における笑い声が象徴するように、人間的な温もりや相互扶助が存在する場こそが、新しい創造を促進する原動力になるのではないでしょうか。

そうした意味で、幼少期に私が耳にした笑い声は、城間びんがた工房が“人と人との交わりを大切にする”という理念を、長い年月にわたり実践してきた証左とも言えるのです。今後もこの姿勢を維持することが、紅型という伝統文化を健やかに次世代へ手渡すうえで不可欠といえましょう。


総括:笑い声がもたらす連続性と未来への展望

振り返れば、父や祖父、そして多くの職人たちが築いてきた工房の空気こそが、私にとっての精神的支柱でした。激動の沖縄史を背景に、なぜここまで笑顔が失われずに済んだのか。それは、技術的な継承だけではなく、人間的な繋がりをいかに維持するかという点が常に重んじられてきたからではないかと思います。

こうした記憶や気づきを土台に、私は今後も城間びんがた工房を運営しながら、紅型のさらなる可能性を探究したいと考えています。その探究には多くの視点と協力が求められるでしょうが、“笑い声”を支点にした連帯感があれば、不可能と思われる課題にも挑戦できると確信しています。もし皆さまがこの工房を訪れる機会がおありでしたら、ぜひとも伝統技法の奥深さとともに、そこで働く人々が紡ぎ出す和やかな空気にも触れていただければ幸いです。


まとめ:笑い声という文化的接着剤

  1. 城間びんがた工房は、私が幼少期から慣れ親しんだ笑顔と安堵感が満ちる場であった。
  2. 紅型という歴史ある染織技術の根底には、重責とともに相互扶助や連帯を大切にする精神が流れている。
  3. 四十七歳になった現在、工房を率いる立場として、幼少期に抱いたこの“笑い声”こそが職人と文化を繋ぎ続ける力の源泉であると再認識している。

公式ホームページでは、紅型の歴史や伝統、私自身の制作にかける思いなどを、やや丁寧に、文化的な視点も交えながら発信しています。一方でInstagramでは、職人の日常や工房のちょっとした風景、沖縄の光や緑の中に息づく“暮らしに根ざした紅型”の表情を気軽に紹介しています。たとえば、朝の染料作りの様子や、工房の裏庭で揺れる福木の葉っぱ、時には染めたての布を空にかざした一瞬の写真など、ものづくりの空気感を身近に感じていただける内容を心がけています。

紅型は決して遠い伝統ではなく、今を生きる私たちの日々とともにあるものです。これからも新しい挑戦と日々の積み重ねを大切にしながら、沖縄の染め物文化の魅力を発信し続けていきたいと思います。ぜひInstagramものぞいていただき、工房の日常や沖縄の彩りを一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。

城間栄市 プロフィール昭和52年(1977年)、沖縄県生まれ。

城間びんがた工房十五代・城間栄順の長男として育つ。

学歴・海外研修

  • 平成15年(2003年)より2年間、インドネシア・ジョグジャカルタ特別州に滞在し、バティック(ろうけつ染)を学ぶ。
  • 帰国後は城間びんがた工房にて、琉球びんがたの制作・指導に専念。

受賞・展覧会歴

  • 平成24年:西部工芸展 福岡市長賞 受賞
  • 平成25年:沖展 正会員に推挙
  • 平成26年:西部工芸展 奨励賞 受賞
  • 平成27年:日本工芸会 新人賞を受賞し、正会員に推挙
  • 令和3年:西部工芸展 沖縄タイムス社賞 受賞
  • 令和4年:MOA美術館 岡田茂吉賞 大賞 受賞
  • 令和5年:西部工芸展 西部支部長賞 受賞

主な出展

  • 「ポケモン工芸展」に出展
  • 文化庁主催「日中韓芸術祭」に出展
  • 令和6年:文化庁「技を極める」展に出展

現在の役職・活動

  • 城間びんがた工房 十六代 代表
  • 日本工芸会 正会員
  • 沖展(沖縄タイムス社主催公募展)染色部門 審査員
  • 沖縄県立芸術大学 非常勤講師

プロフィール概要

はじめまして。城間びんがた工房16代目の城間栄市です。私は1977年、十五代・城間栄順の長男として沖縄に生まれ、幼いころから紅型の仕事に親しみながら育ちました。工房に入った後は父のもとで修行を重ねつつ、沖縄県芸術祭「沖展」に初入選したことをきっかけに本格的に紅型作家として歩み始めました。

これまでの道のりの中で、沖展賞や日本工芸会の新人賞、西部伝統工芸展での沖縄タイムス社賞・西部支部長賞、そしてMOA美術館の岡田茂吉賞大賞など、さまざまな賞をいただくことができました。また、沖展の正会員や日本工芸会の正会員として活動しながら、審査員として後進の作品にも向き合う立場も経験しています。

私自身の制作で特に印象に残っているのは、「波の歌」という紅型着物の作品です。これは沖縄の海を泳ぐ生き物たちの姿を、藍型を基調とした布に躍動感をもって表現したものです。伝統の技法を守りつつ、そこに自分なりの視点や工夫を重ねることで、新しい紅型の可能性を切り拓きたいという思いが込められています。こうした活動を通して、紅型が沖縄の誇る伝統工芸であるだけでなく、日本、そして世界に発信できるアートであると感じています。

20代の頃にはアジア各地を巡り、2003年から2年間はインドネシア・ジョグジャカルタでバティック(ろうけつ染)を学びました。現地での生活や工芸の現場を通して、異文化の技術や感性にふれ、自分自身の紅型への向き合い方にも大きな影響を受けました。伝統を守るだけでなく、常に新しい刺激や発見を大切にしています。

最近では、「ポケモン×工芸展―美とわざの大発見―」など、世界を巡回する企画展にも参加する機会が増えてきました。紅型の技法でポケモンを表現するというチャレンジは、私自身にとっても大きな刺激となりましたし、沖縄の紅型が海外のお客様にも響く可能性を感じています。

メディアにも多く取り上げていただくようになりました。テレビや新聞、ウェブメディアで工房の日常や制作現場が紹介されるたびに、「300年前と変わらない手仕事」に込めた想いを、多くの方に伝えたいと強く思います。