布が記憶となった時――紅型に刻まれた首里城の物語

紅型とともに生きる ― 城間びんがた工房の物語

皆さんこんにちは。いつも城間びんがた工房を温かく応援してくださり、本当にありがとうございます。
私は16代目を務める城間栄市です。沖縄・首里の地で300年以上続く伝統工芸「紅型(びんがた)」を、こうして現代まで伝えることができているのは、多くの方々のご支援と関心のおかげだと、心から感謝しています。

琉球文化を染め続けてきた工房

紅型は、琉球王国時代に王族や士族の衣装を染めるために生まれた染色技法です。
沖縄は古来から海を介して日本・中国・東南アジアの文化的影響を受けており、多様な価値観や美意識が混ざり合うことで、独特の鮮やかな色彩と大胆な図柄が育まれました。

大小の島々が連なり、人々が船で行き交った琉球列島は、まさに「交流の架け橋」。
そこから生まれた紅型もまた、世界とつながりながら進化を遂げた工芸でした。

その歴史を背負う城間家は、代々職人として紅型を継承し、私は16代目として工房を預かっています。
12年前に工房を引き継いでからというもの、「この小さな島の工芸に興味を持ってくださる皆様は、まさに一隅を照らす存在だ」と感謝し続けています。

廃藩置県と紅型の試練

しかし、紅型の道は決して平坦ではありません。
明治時代の廃藩置県によって琉球王国が解体されると、王府に仕えていた職人たちは職を失いました。紅型は一気に需要を失い、多くの技法や道具が失われていきました。

それでもわずかに残った職人たちは、誇りを失わず、細々と染めを続けました。
その流れの中に私たちの工房もありましたが、次に訪れたのはさらに大きな試練――太平洋戦争でした。

焼け野原の首里城と祖父・栄喜の挑戦

第14代・祖父 城間栄喜 が生きた時代、工房は戦火で完全に焼き尽くされました。
首里城も日本軍の通信基地として使われたため激しい攻撃にさらされ、終戦直後は土台を残すだけの焼け野原になりました。

紅型を染めるための道具も、布も、工房も、すべて失われました。
祖父は38歳で終戦を迎え、沖縄の文化をどう守り、家族をどう養うかという重い問いを背負いました。

1960年代の紅型をしている工房の様子
終戦後レコード 薬莢など 手に入る廃品から染色道具を作りました

しかし、祖父は諦めませんでした。
「わんがさんねぇ たぁがすが!(私がやらずに誰がする!)」
そう信じ、手作りの道具とわずかな布で、再び紅型を染め始めました。

その中で生まれたのが、焼け野原となった故郷を記録した作品 「首里城風景」 です。
祖父は「失われた誇りを布に刻みたい」との思いで、焼け落ちた城を紅型で描き、沖縄の心を未来に残そうとしました。


生きるための紅型から、誇りを守る紅型へ

祖父の紅型は、最初は「生きるための手段」でした。
米軍キャンプの片隅でポストカードサイズの紅型を染め、アメリカ兵に売って生活をつなぎました。

しかし、そこには「本物の紅型を残す」という強い意志がありました。
祖父は決して簡略化や妥協をせず、時間をかけて技を守り抜きました。

終戦後は紅型の技術で ポストカードを作りました。
1958年台の沖縄(撮影 城間栄順)

避難生活の中でも、祖父は首里の石畳を歩き、かつての景色に心を奮い立たせていたと聞いています。
「闇の世に たちゅる幼子の うちなぁ しばしまてぃり 嵐どきら」
祖父が歌ったこの歌には、「暗闇の中に立つ幼子のような沖縄よ、少し待っていなさい、私が嵐を切り拓いてみせる」という決意が込められていました。

紅型は、ただの模様ではなく「沖縄の魂」を宿すものだったのです。

「ものづくりを通して琉球の思いを守る」

私は16代目として、祖父や父、そして代々の職人たちの歩みを受け継いでいます。
そして工房の理念として掲げた言葉が、**「ものづくりを通して琉球の思いを守る」**です。

紅型は布に模様を染めるだけの技術ではありません。
そこには沖縄の海の青、太陽の光、島を渡る風、人々の祈りや願いが重なっています。

琉球王国時代の格式ある美しさ。
戦後の混乱の中で失われなかった誇り。
そして未来に向かう挑戦。

そのすべてを布に込めてきたのが紅型であり、私たち職人の使命です。

未来へ続く紅型の物語

祖父が描いた「首里城風景」は、戦争で失われた景色を紅型で蘇らせた象徴的な作品です。
それは、沖縄の誇りを布に刻み、未来に伝えるための第一歩でした。

そして今、私たちが染める紅型もまた、未来の誰かに「沖縄の思い」を伝える作品でありたいと願っています。

この工房で生まれる一枚一枚には、琉球の魂が宿っています。
その布を手にしたときに、沖縄の歴史や文化、人々の想いを感じていただければ、これほど嬉しいことはありません。

祖父栄喜が住んでいた家

紅型に、時間と祈りを宿す

私は紅型を、単なる染色技法ではなく、
沖縄という土地で積み重ねられてきた時間や祈り、
そして暮らしの感覚を受け止める「文化の器」だと捉えています。

布に色を置くという行為の奥には、
自然へのまなざし、人への想い、
そして生き方そのものが静かに重なっています。
その感覚を、できるだけ正直に、今の時代の言葉と形で手渡していくこと。
それが、私が紅型と向き合い続ける理由です。


城間栄市プロフィール 生い立ちと紅型との距離

1977年、沖縄県生まれ。
城間びんがた工房十五代・城間栄順の長男として育ちました。

幼い頃から、工房は日常の延長線上にありました。
染料の匂い、布を干す風景、
職人たちの背中や交わされる何気ない会話。
それらは特別なものというより、生活の一部として、自然に身の回りにありました。

本格的に工房に入り、父のもとで修行を始めたのは、
沖縄県芸術祭「沖展」への初入選をきっかけとしています。
紅型を「受け継ぐもの」としてではなく、
自分自身の人生として引き受ける覚悟が、
そのとき初めて定まったように思います。


外の世界で学んだこと

2003年からの約2年間、
インドネシア・ジョグジャカルタに滞在し、
バティック(ろうけつ染)を学びました。

異なる気候、異なる宗教観、異なる生活のリズム。
その中で工芸がどのように根づき、人々の暮らしと結びついているのかを、
現地での生活を通して体感しました。

この経験は、
「伝統を守ること」と「変化を受け入れること」は、
決して相反するものではない、
という確信を私にもたらしました。


受賞・出展についての考え方

これまで、沖展、日本工芸会、西部伝統工芸展、
MOA美術館岡田茂吉賞など、
いくつかの評価や賞をいただいてきました。
また、文化庁主催の展覧会や、
「ポケモン工芸展」など、国内外に向けた企画展にも参加する機会を得ています。

こうした節目を迎えるたびに、
私自身の評価以上に、
紅型という存在を知ってもらう機会が広がっていくことに、
大きな喜びを感じています。

一つの作品が、
「沖縄にはこういう染め物があるのですね」
という小さな気づきにつながる。
その積み重ねこそが、紅型の未来を静かに支えていくのだと感じています。


制作について

制作では、伝統的な技法を大切にしながらも、
その時代、その感覚にしか生まれない表現を探り続けています。

代表作の一つである紅型着物《波の歌》では、
沖縄の海を泳ぐ生き物たちの姿を、
藍色を基調に、リズムと奥行きを意識して表現しました。

新しさを声高に主張するのではなく、
布に触れた人が、
どこか懐かしさや安心感を覚えるような仕事を目指しています。


今、そしてこれから

現在は、
城間びんがた工房十六代代表として制作を行いながら、
日本工芸会正会員、沖展染色部門審査員、
沖縄県立芸術大学非常勤講師としても活動しています。

これらの役割もまた、
紅型を「閉じた世界」に留めず、
次の世代や、まだ出会っていない人たちへと
静かにつないでいくための一つの手段だと考えています。

これからも、
展覧会やさまざまな協働を通して、
紅型という文化に触れる“入り口”を、少しずつ増やしていきたい。
それは広げるためというより、
必要な場所に、必要なかたちで、そっと灯りを置いていく
そんな感覚に近いものです。


おわりに

公式ホームページでは、
紅型の歴史や背景、制作に込めた考えを、
少し丁寧に言葉にして残しています。

Instagramでは、
職人の日常や工房の空気、
沖縄の光や緑の中で息づく紅型の表情を、
より身近な距離感でお伝えしています。

どちらも、紅型を「特別なもの」にするためではなく、
今を生きる私たちの暮らしと、
静かにつながる存在として感じていただくためのものです。

この場所を訪れてくださったことが、
紅型との、ささやかな出会いとなれば幸いです。

LINE公式 https://line.me/R/ti/p/@275zrjgg

Instagram https://www.instagram.co