布が記憶となった時――紅型に刻まれた首里城の物語
2025.08.24
紅型とともに生きる ― 城間びんがた工房の物語
皆さんこんにちは。いつも城間びんがた工房を温かく応援してくださり、本当にありがとうございます。
私は16代目を務める城間栄市です。沖縄・首里の地で300年以上続く伝統工芸「紅型(びんがた)」を、こうして現代まで伝えることができているのは、多くの方々のご支援と関心のおかげだと、心から感謝しています。
琉球文化を染め続けてきた工房
紅型は、琉球王国時代に王族や士族の衣装を染めるために生まれた染色技法です。
沖縄は古来から海を介して日本・中国・東南アジアの文化的影響を受けており、多様な価値観や美意識が混ざり合うことで、独特の鮮やかな色彩と大胆な図柄が育まれました。
大小の島々が連なり、人々が船で行き交った琉球列島は、まさに「交流の架け橋」。
そこから生まれた紅型もまた、世界とつながりながら進化を遂げた工芸でした。
その歴史を背負う城間家は、代々職人として紅型を継承し、私は16代目として工房を預かっています。
12年前に工房を引き継いでからというもの、「この小さな島の工芸に興味を持ってくださる皆様は、まさに一隅を照らす存在だ」と感謝し続けています。
廃藩置県と紅型の試練
しかし、紅型の道は決して平坦ではありません。
明治時代の廃藩置県によって琉球王国が解体されると、王府に仕えていた職人たちは職を失いました。紅型は一気に需要を失い、多くの技法や道具が失われていきました。
それでもわずかに残った職人たちは、誇りを失わず、細々と染めを続けました。
その流れの中に私たちの工房もありましたが、次に訪れたのはさらに大きな試練――太平洋戦争でした。
焼け野原の首里城と祖父・栄喜の挑戦
第14代・祖父 城間栄喜 が生きた時代、工房は戦火で完全に焼き尽くされました。
首里城も日本軍の通信基地として使われたため激しい攻撃にさらされ、終戦直後は土台を残すだけの焼け野原になりました。
紅型を染めるための道具も、布も、工房も、すべて失われました。
祖父は38歳で終戦を迎え、沖縄の文化をどう守り、家族をどう養うかという重い問いを背負いました。



しかし、祖父は諦めませんでした。
「わんがさんねぇ たぁがすが!(私がやらずに誰がする!)」
そう信じ、手作りの道具とわずかな布で、再び紅型を染め始めました。
その中で生まれたのが、焼け野原となった故郷を記録した作品 「首里城風景」 です。
祖父は「失われた誇りを布に刻みたい」との思いで、焼け落ちた城を紅型で描き、沖縄の心を未来に残そうとしました。

生きるための紅型から、誇りを守る紅型へ
祖父の紅型は、最初は「生きるための手段」でした。
米軍キャンプの片隅でポストカードサイズの紅型を染め、アメリカ兵に売って生活をつなぎました。
しかし、そこには「本物の紅型を残す」という強い意志がありました。
祖父は決して簡略化や妥協をせず、時間をかけて技を守り抜きました。




避難生活の中でも、祖父は首里の石畳を歩き、かつての景色に心を奮い立たせていたと聞いています。
「闇の世に たちゅる幼子の うちなぁ しばしまてぃり 嵐どきら」
祖父が歌ったこの歌には、「暗闇の中に立つ幼子のような沖縄よ、少し待っていなさい、私が嵐を切り拓いてみせる」という決意が込められていました。
紅型は、ただの模様ではなく「沖縄の魂」を宿すものだったのです。
「ものづくりを通して琉球の思いを守る」
私は16代目として、祖父や父、そして代々の職人たちの歩みを受け継いでいます。
そして工房の理念として掲げた言葉が、**「ものづくりを通して琉球の思いを守る」**です。
紅型は布に模様を染めるだけの技術ではありません。
そこには沖縄の海の青、太陽の光、島を渡る風、人々の祈りや願いが重なっています。
琉球王国時代の格式ある美しさ。
戦後の混乱の中で失われなかった誇り。
そして未来に向かう挑戦。
そのすべてを布に込めてきたのが紅型であり、私たち職人の使命です。
未来へ続く紅型の物語
祖父が描いた「首里城風景」は、戦争で失われた景色を紅型で蘇らせた象徴的な作品です。
それは、沖縄の誇りを布に刻み、未来に伝えるための第一歩でした。
そして今、私たちが染める紅型もまた、未来の誰かに「沖縄の思い」を伝える作品でありたいと願っています。
この工房で生まれる一枚一枚には、琉球の魂が宿っています。
その布を手にしたときに、沖縄の歴史や文化、人々の想いを感じていただければ、これほど嬉しいことはありません。









公式ホームページでは、紅型の歴史や伝統、私自身の制作にかける思いなどを、やや丁寧に、文化的な視点も交えながら発信しています。一方でInstagramでは、職人の日常や工房のちょっとした風景、沖縄の光や緑の中に息づく“暮らしに根ざした紅型”の表情を気軽に紹介しています。たとえば、朝の染料作りの様子や、工房の裏庭で揺れる福木の葉っぱ、時には染めたての布を空にかざした一瞬の写真など、ものづくりの空気感を身近に感じていただける内容を心がけています。
紅型は決して遠い伝統ではなく、今を生きる私たちの日々とともにあるものです。これからも新しい挑戦と日々の積み重ねを大切にしながら、沖縄の染め物文化の魅力を発信し続けていきたいと思います。ぜひInstagramものぞいていただき、工房の日常や沖縄の彩りを一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。

城間栄市 プロフィール昭和52年(1977年)、沖縄県生まれ。
城間びんがた工房十五代・城間栄順の長男として育つ。
学歴・海外研修
- 平成15年(2003年)より2年間、インドネシア・ジョグジャカルタ特別州に滞在し、バティック(ろうけつ染)を学ぶ。
- 帰国後は城間びんがた工房にて、琉球びんがたの制作・指導に専念。
受賞・展覧会歴
- 平成24年:西部工芸展 福岡市長賞 受賞
- 平成25年:沖展 正会員に推挙
- 平成26年:西部工芸展 奨励賞 受賞
- 平成27年:日本工芸会 新人賞を受賞し、正会員に推挙
- 令和3年:西部工芸展 沖縄タイムス社賞 受賞
- 令和4年:MOA美術館 岡田茂吉賞 大賞 受賞
- 令和5年:西部工芸展 西部支部長賞 受賞
主な出展
- 「ポケモン工芸展」に出展
- 文化庁主催「日中韓芸術祭」に出展
- 令和6年:文化庁「技を極める」展に出展
現在の役職・活動
- 城間びんがた工房 十六代 代表
- 日本工芸会 正会員
- 沖展(沖縄タイムス社主催公募展)染色部門 審査員
- 沖縄県立芸術大学 非常勤講師
プロフィール概要
はじめまして。城間びんがた工房16代目の城間栄市です。私は1977年、十五代・城間栄順の長男として沖縄に生まれ、幼いころから紅型の仕事に親しみながら育ちました。工房に入った後は父のもとで修行を重ねつつ、沖縄県芸術祭「沖展」に初入選したことをきっかけに本格的に紅型作家として歩み始めました。
これまでの道のりの中で、沖展賞や日本工芸会の新人賞、西部伝統工芸展での沖縄タイムス社賞・西部支部長賞、そしてMOA美術館の岡田茂吉賞大賞など、さまざまな賞をいただくことができました。また、沖展の正会員や日本工芸会の正会員として活動しながら、審査員として後進の作品にも向き合う立場も経験しています。
私自身の制作で特に印象に残っているのは、「波の歌」という紅型着物の作品です。これは沖縄の海を泳ぐ生き物たちの姿を、藍型を基調とした布に躍動感をもって表現したものです。伝統の技法を守りつつ、そこに自分なりの視点や工夫を重ねることで、新しい紅型の可能性を切り拓きたいという思いが込められています。こうした活動を通して、紅型が沖縄の誇る伝統工芸であるだけでなく、日本、そして世界に発信できるアートであると感じています。
20代の頃にはアジア各地を巡り、2003年から2年間はインドネシア・ジョグジャカルタでバティック(ろうけつ染)を学びました。現地での生活や工芸の現場を通して、異文化の技術や感性にふれ、自分自身の紅型への向き合い方にも大きな影響を受けました。伝統を守るだけでなく、常に新しい刺激や発見を大切にしています。
最近では、「ポケモン×工芸展―美とわざの大発見―」など、世界を巡回する企画展にも参加する機会が増えてきました。紅型の技法でポケモンを表現するというチャレンジは、私自身にとっても大きな刺激となりましたし、沖縄の紅型が海外のお客様にも響く可能性を感じています。
メディアにも多く取り上げていただくようになりました。テレビや新聞、ウェブメディアで工房の日常や制作現場が紹介されるたびに、「300年前と変わらない手仕事」に込めた想いを、多くの方に伝えたいと強く思います。