「父を知るたび、未来が静かに変わっていく」
2025.12.01
手紙 ― 父を理解するという旅のはじまりに


父は、戦争を語らない人だった。
私が三十五歳で工房を継ぐと決めたとき、
琉球王国の時代から連なる十六代目としての責任よりも先に、
胸に強く浮かんだ問いがある。
「父は、どんな気持ちでこの仕事を続けてきたのだろうか。」
この問いを避けて伝統を継げば、
どこかで必ず迷う――
そんな予感が、深いところでずっと鳴っていた。
父は、祖父のことをいつも「親分」と呼び、
その背中を心の中心に置いて生きてきた人だった。
私にとっての父もまた、この家と文化を理解するための“入り口”だったのだと思う。
しかし父は、過去を語らない。
昭和九年生まれ。十歳で戦後を迎え、母を失い、熊本へ疎開し、
再び沖縄へ戻ってきた。
その幼少期の体験は、言葉にすれば傷が開くほど深いものだったのだろう。
私は子どもの頃も、青年になっても、父が戦争の記憶を語る姿を一度も見たことがなかった。
◆
三十五歳で代を継ぐと決めたとき、
私は初めて父の人生に近づこうと思った。
それは“父と向き合う”というよりも
自分の根を確かめる旅だったのかもしれない。
最初は、ごく普通の思い出から始まった。
小学校での遊び、近所の墓地の話、中学校の帰り道。
そんな何気ない記憶をたどるうちに、
父の沈黙の奥にある柔らかさに初めて触れた気がした。
そして父が七十五歳を迎える頃、
ようやく“あの日々”の話をするようになった。
◆
疎開先の熊本で「本当によくしてもらったよ」と父は言った。
その言葉は感謝に満ちていたが、
同時に、九歳の少年が抱えていた心細さの大きさも滲んでいた。
沖縄へ戻るために乗った船は「和浦丸」。
対馬丸と同じ時期を走った学童疎開船だ。
父は荒縄を一本手渡されたという。
救命具ではない。
船が沈むとき、窓から脱出するための“命綱”だった。
「船に残るな。海へ逃げろ。」
それだけが指示だった。
父は、真っ暗な甲板の小窓から
火柱が立つのを見ていたという。
七十年経っても、そのときの声の震えは消えなかった。
やっとの思いで帰り着いた沖縄は瓦礫の山だった。
そして、疎開中ずっと会いたかった母が亡くなっていたことを
そこで知ることになる。
あまりにも重い喪失が、幼い少年の胸に重なっていた。
◆
父が沈黙を選んだ理由が、ようやく私にもわかってきた。
言葉にすれば再び痛みが立ち上がるような記憶。
その深い傷を抱えながら、父はただ前を向いて働き続けたのだ。
家の紅型の仕事は、
父にとって伝統を守るためではなく、
生き続けるための仕事だったのだと思う。
九十一歳の今も父は仕事をしている。
好きだからではなく、
手を止めたら生き方の柱が崩れてしまうのだろう。
仕事が父を支え、父が仕事を支えてきた。
◆
若い頃の私は、そんな父をつまらなく感じていた。
朝五時に起き、黙々と仕事をし、夕方には必ず飲みに行く。
日曜であろうと生活を崩さない。
自分のリズムを一切揺らさない。
十五歳を過ぎ、私の中に野心や広い世界への憧れが芽生えると、
父の生き方は退屈で古く見えた。
二十五歳の私は、インドネシアへ行き、
アジアの工芸を学び、
地域と連携してものづくりを育てたいと、
若い言葉で夢をぶつけた。
父は言った。
「何を言ってるかよくわからん。
とにかく、早く寝て早く起きなさい。」
その答えに、当時は苛立ちすら感じた。
しかし今思えば、父の中では
生き抜いてきた人間のリズムこそが、人生の中心だったのだ。
◆
父の背中を思い返すたび、忘れられない光景がある。
忙しい合間を縫って、
夕方、田んぼの道を肩車で歩いてくれたこと。
仕事に追われながらも、
私の小さな世界を広げようとしてくれた時間。
父は、私に“家業のプレッシャー”を植えつけるようなことを
一度たりとも言わなかった。
やってみたいなら、やってみればいい。
古典を基礎として持っていれば、
どんな表現もやってみればいい。
そんなふうにしか父は語らなかった。
そしてそれは、
父が戦争で家族を失った経験を持つ人だからこその、
深い優しさだったのかもしれない。
“家族は、温かい場所であるべきだ。”
父は無言のまま、そういう姿勢で私を見守っていた。
◆
父の人生は、
私にとって「未来への手紙」のようなものだ。
強さと弱さ、沈黙と優しさ、喪失と再生。
それらが父の中でひとつの形をつくり、
その上に私の人生が続いている。
父を理解し直すことは、
そのまま自分自身の心を見つめ直すことでもある。
怒りや悲しみを押し殺す必要はない。
それらを理解し直す旅は、
いつだって未来へ向けて書く“手紙”になるからだ。
そのまま未来への手紙になると言えるのは、
父の思いや出来事――あの沈黙の奥に眠っていた過去に触れたとき、
私の中でひとつの扉が静かに開くからです。
父とつながり、過去とつながり、そして琉球とつながる。
その瞬間、私は自分という存在の“根”に触れているのだと感じます。
地面の下へ深く伸びていく根。そのずっと奥に、小さな泉が湧いている。
そこは暗い地下ではなく、静かに満ちる光の底で、
触れれば触れるほど、新しいイメージが立ち上がってくる場所です。
その泉は、父が歩いてきた苦労の歴史からだけ生まれるものではありません。
幼い私を肩車し、好奇心を壊さずに育ててくれた、
あの優しい手のぬくもりともつながっています。
父の人生に触れるという行為は、
単なる回想ではなく、私自身の創造の源泉につながる行為でもあるのだ――
今、私はそう確かに思うのです。
父の人生と向き合う旅は、
私自身が未来へ向かって進んでいくための
深い深い“起点”のようなものなのです。





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Instagram https://www.instagram.com/shiromabingata16/
公式ホームページでは、紅型の歴史や伝統、私自身の制作にかける思いなどを、やや丁寧に、文化的な視点も交えながら発信しています。一方でInstagramでは、職人の日常や工房のちょっとした風景、沖縄の光や緑の中に息づく“暮らしに根ざした紅型”の表情を気軽に紹介しています。たとえば、朝の染料作りの様子や、工房の裏庭で揺れる福木の葉っぱ、時には染めたての布を空にかざした一瞬の写真など、ものづくりの空気感を身近に感じていただける内容を心がけています。
紅型は決して遠い伝統ではなく、今を生きる私たちの日々とともにあるものです。これからも新しい挑戦と日々の積み重ねを大切にしながら、沖縄の染め物文化の魅力を発信し続けていきたいと思います。ぜひInstagramものぞいていただき、工房の日常や沖縄の彩りを一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。

城間栄市 プロフィール昭和52年(1977年)、沖縄県生まれ。
城間びんがた工房十五代・城間栄順の長男として育つ。
学歴・海外研修
- 平成15年(2003年)より2年間、インドネシア・ジョグジャカルタ特別州に滞在し、バティック(ろうけつ染)を学ぶ。
- 帰国後は城間びんがた工房にて、琉球びんがたの制作・指導に専念。
受賞・展覧会歴
- 平成24年:西部工芸展 福岡市長賞 受賞
- 平成25年:沖展 正会員に推挙
- 平成26年:西部工芸展 奨励賞 受賞
- 平成27年:日本工芸会 新人賞を受賞し、正会員に推挙
- 令和3年:西部工芸展 沖縄タイムス社賞 受賞
- 令和4年:MOA美術館 岡田茂吉賞 大賞 受賞
- 令和5年:西部工芸展 西部支部長賞 受賞
主な出展
- 「ポケモン工芸展」に出展
- 文化庁主催「日中韓芸術祭」に出展
- 令和6年:文化庁「技を極める」展に出展
現在の役職・活動
- 城間びんがた工房 十六代 代表
- 日本工芸会 正会員
- 沖展(沖縄タイムス社主催公募展)染色部門 審査員
- 沖縄県立芸術大学 非常勤講師
プロフィール概要
はじめまして。城間びんがた工房16代目の城間栄市です。私は1977年、十五代・城間栄順の長男として沖縄に生まれ、幼いころから紅型の仕事に親しみながら育ちました。工房に入った後は父のもとで修行を重ねつつ、沖縄県芸術祭「沖展」に初入選したことをきっかけに本格的に紅型作家として歩み始めました。
これまでの道のりの中で、沖展賞や日本工芸会の新人賞、西部伝統工芸展での沖縄タイムス社賞・西部支部長賞、そしてMOA美術館の岡田茂吉賞大賞など、さまざまな賞をいただくことができました。また、沖展の正会員や日本工芸会の正会員として活動しながら、審査員として後進の作品にも向き合う立場も経験しています。
私自身の制作で特に印象に残っているのは、「波の歌」という紅型着物の作品です。これは沖縄の海を泳ぐ生き物たちの姿を、藍型を基調とした布に躍動感をもって表現したものです。伝統の技法を守りつつ、そこに自分なりの視点や工夫を重ねることで、新しい紅型の可能性を切り拓きたいという思いが込められています。こうした活動を通して、紅型が沖縄の誇る伝統工芸であるだけでなく、日本、そして世界に発信できるアートであると感じています。
20代の頃にはアジア各地を巡り、2003年から2年間はインドネシア・ジョグジャカルタでバティック(ろうけつ染)を学びました。現地での生活や工芸の現場を通して、異文化の技術や感性にふれ、自分自身の紅型への向き合い方にも大きな影響を受けました。伝統を守るだけでなく、常に新しい刺激や発見を大切にしています。
最近では、「ポケモン×工芸展―美とわざの大発見―」など、世界を巡回する企画展にも参加する機会が増えてきました。紅型の技法でポケモンを表現するというチャレンジは、私自身にとっても大きな刺激となりましたし、沖縄の紅型が海外のお客様にも響く可能性を感じています。
メディアにも多く取り上げていただくようになりました。テレビや新聞、ウェブメディアで工房の日常や制作現場が紹介されるたびに、「300年前と変わらない手仕事」に込めた想いを、多くの方に伝えたいと強く思います。