「売る」前に、描いていたもの
2026.01.05
一枚の葉書が生まれるまで
― 焼け野原の街で、「まだここにいる」と伝えるために ―


戦後、首里の街は焼け野原となりました。
家も道具も失われ、日々をどう生き延びるかだけで精一杯だった時代です。
その中で、祖父・城間栄喜は、紅型の技術を使って小さな絵はがきを作り始めました。
それは、生活のためだけでも、収入のためだけでもありませんでした。
むしろ、今思えば、
「私たちは、まだここにいる」
「琉球の誇りや美意識は、消えていない」
そう伝えるための、静かで、しかし確かな行為だったのだと思います。
終戦を迎えたとき、祖父は三十八歳。
父・栄順は十歳だったと聞いています。
戦後二年目、まだ暮らしの見通しすら立たない中で、
生活の合間に、わずかな材料を使い、
型を置き、色を考え、布や紙に向き合っていた。


それは「作品を作る」というよりも、
「手を動かし続けることで、心を保つ」
そんな時間だったのではないでしょうか。



当時の首里には、立派な工房があったわけではありません。
電気も十分ではなく、水も安定しない。
それでも、葉に落ちた雫の美しさや、
朝の風の冷たさ、
夕方の空の色に、
人は確かに美を感じていました。
琉球の工芸は、
生活の中で、祈りのように育まれてきたものです。
うまく言葉にしなくても、
「今日も嘘のない仕事ができた」
その感覚を大切にしてきた人たちが、
この島には確かにいました。

祖父が作った絵はがきは、
大きな作品ではありません。
派手な色でも、技巧を誇るものでもない。
けれど、その一枚には、
「美意識を手放さない」という決意が、
静かに宿っていたように思います。


それは、
奪われたものの多さに対抗するための表現ではなく、
失われなかったものを、
そっと確かめるための行為だったのかもしれません。
私は、長い間、
「今の紅型」をどう伝えるかに力を注いできました。
展示や制作、新しい表現への挑戦。
それらはすべて、必要な仕事だったと思っています。
けれど、年齢を重ねるにつれ、
自分が手を動かしているその技法が、
どこから来たのかを、
もう一度、きちんと見つめ直したいと思うようになりました。
一色を選ぶ感覚。
型を置くときの間。
にじみをどこまで許すか。
それらは、私一人の感覚ではなく、
確かに、誰かの時間の延長線上にあります。
祖父が戦後すぐに作った一枚の葉書。
そこには、評価も、称賛も求めていない、
ただ「続ける」という意思だけがありました。
このコラムで綴っていきたいのは、
完成したものの美しさではありません。
迷い、ためらい、
手が止まる瞬間や、
思い切って一歩踏み出す、その感覚です。
一枚の葉書が生まれるまでには、
多くの「決めない時間」があります。
すぐに答えを出さず、
急がず、
ただ手触りや気配に耳を澄ます。
それは、効率のよい仕事ではありません。
けれど、そうした時間の積み重ねこそが、
この島の工芸を支えてきたのだと思います。
この企画は、
過去を美化するためのものではありません。
また、懐かしむための記録でもありません。
いま私たちが続けている仕事が、
どんな時間の上に成り立っているのかを、
自分自身の足元で、
もう一度確かめるための試みです。
祖父が残した一枚の葉書。
そこから始まる物語を辿ることは、
未来へ向かうために、
いま立っている場所を知ることでもあります。
「まだ、ここにいる」
その静かな声は、
決して大きく響くものではありません。
けれど、確かに、
今もこの場所で、
手を動かし続けている私たちの中に、
息づいているのだと思います。
この連なりを、
少しずつ、丁寧に、
言葉にしていきたいと考えています。
紅型に、時間と祈りを宿す
私は紅型を、単なる染色技法ではなく、
沖縄という土地で積み重ねられてきた時間や祈り、
そして暮らしの感覚を受け止める「文化の器」だと捉えています。
布に色を置くという行為の奥には、
自然へのまなざし、人への想い、
そして生き方そのものが静かに重なっています。
その感覚を、できるだけ正直に、今の時代の言葉と形で手渡していくこと。
それが、私が紅型と向き合い続ける理由です。

城間栄市プロフィール 生い立ちと紅型との距離
1977年、沖縄県生まれ。
城間びんがた工房十五代・城間栄順の長男として育ちました。
幼い頃から、工房は日常の延長線上にありました。
染料の匂い、布を干す風景、
職人たちの背中や交わされる何気ない会話。
それらは特別なものというより、生活の一部として、自然に身の回りにありました。
本格的に工房に入り、父のもとで修行を始めたのは、
沖縄県芸術祭「沖展」への初入選をきっかけとしています。
紅型を「受け継ぐもの」としてではなく、
自分自身の人生として引き受ける覚悟が、
そのとき初めて定まったように思います。
外の世界で学んだこと
2003年からの約2年間、
インドネシア・ジョグジャカルタに滞在し、
バティック(ろうけつ染)を学びました。
異なる気候、異なる宗教観、異なる生活のリズム。
その中で工芸がどのように根づき、人々の暮らしと結びついているのかを、
現地での生活を通して体感しました。
この経験は、
「伝統を守ること」と「変化を受け入れること」は、
決して相反するものではない、
という確信を私にもたらしました。
受賞・出展についての考え方
これまで、沖展、日本工芸会、西部伝統工芸展、
MOA美術館岡田茂吉賞など、
いくつかの評価や賞をいただいてきました。
また、文化庁主催の展覧会や、
「ポケモン工芸展」など、国内外に向けた企画展にも参加する機会を得ています。
こうした節目を迎えるたびに、
私自身の評価以上に、
紅型という存在を知ってもらう機会が広がっていくことに、
大きな喜びを感じています。
一つの作品が、
「沖縄にはこういう染め物があるのですね」
という小さな気づきにつながる。
その積み重ねこそが、紅型の未来を静かに支えていくのだと感じています。
制作について
制作では、伝統的な技法を大切にしながらも、
その時代、その感覚にしか生まれない表現を探り続けています。
代表作の一つである紅型着物《波の歌》では、
沖縄の海を泳ぐ生き物たちの姿を、
藍色を基調に、リズムと奥行きを意識して表現しました。
新しさを声高に主張するのではなく、
布に触れた人が、
どこか懐かしさや安心感を覚えるような仕事を目指しています。
今、そしてこれから
現在は、
城間びんがた工房十六代代表として制作を行いながら、
日本工芸会正会員、沖展染色部門審査員、
沖縄県立芸術大学非常勤講師としても活動しています。
これらの役割もまた、
紅型を「閉じた世界」に留めず、
次の世代や、まだ出会っていない人たちへと
静かにつないでいくための一つの手段だと考えています。
これからも、
展覧会やさまざまな協働を通して、
紅型という文化に触れる“入り口”を、少しずつ増やしていきたい。
それは広げるためというより、
必要な場所に、必要なかたちで、そっと灯りを置いていく
そんな感覚に近いものです。
おわりに
公式ホームページでは、
紅型の歴史や背景、制作に込めた考えを、
少し丁寧に言葉にして残しています。
Instagramでは、
職人の日常や工房の空気、
沖縄の光や緑の中で息づく紅型の表情を、
より身近な距離感でお伝えしています。
どちらも、紅型を「特別なもの」にするためではなく、
今を生きる私たちの暮らしと、
静かにつながる存在として感じていただくためのものです。
この場所を訪れてくださったことが、
紅型との、ささやかな出会いとなれば幸いです。

LINE公式 https://line.me/R/ti/p/@275zrjgg
