アーマン浜 ― ヤドカリの宴と私の原風景

皆さま、こんにちは。
日頃より紅型を通じて琉球文化に関心を寄せてくださり、心より感謝申し上げます。皆さまの温かい応援や好奇心が、私たちが日々挑戦を続ける大きな励みとなっています。

城間家は、沖縄で紅型という伝統工芸を三百年にわたり受け継いできた工房です。私はその16代目として十二年前に家業を引き継ぎ、現在は二十名の職人と共に、ひとつひとつの作品に真摯に向き合っています。

琉球王国の時代から、城間家の職人たちは王に献上する作品を仕上げるため、互いに技を高め合い、布に心を込めてきました。その精神は今も息づいており、一つの作品には多くの職人の手と経験が重なり合い、ようやく形となります。

ただ、その流れの起点となるのは、工房の中心に立つ私自身が最初に生み出す作品です。そこには責任の重さと同時に、伝統を未来へつなぐ喜びがあります。今回のコラムでは、そうした思いや背景を、感謝の気持ちを込めてお伝えしたいと思います。

アーマン浜 ― ヤドカリの宴と私の原風景

「アーマン」とは沖縄の方言で「ヤドカリ」を意味します。そして「浜」とはもちろん砂浜のこと。沖縄の自然豊かな海辺を舞台に、夜に動き回るヤドカリたちの様子を題材にした作品が「アーマン浜」です。そこには、私自身が子どもの頃から抱いてきたワクワク感や、沖縄の自然に潜む物語、さらには技法的な挑戦を込めています。


アダン林と白い砂浜の記憶

沖縄の海岸沿いには、アダンというヤシ科の植物が群生しています。鋭い葉を広げ、たくましく根を張るその姿は、海風や潮にさらされながらも逞しく生きる沖縄の自然そのものです。アダンの葉は、民具や生活道具の材料としても古くから用いられてきました。まさに生活に寄り添う身近な植物と言えるでしょう。

子どもの頃、那覇で育った私にとって「やんばる」への小旅行は特別な体験でした。休日になると、忙しい両親が車に乗せて北部へと連れて行ってくれる。その道のりは長く、子どもにとっては少し退屈な時間でもありましたが、アダン林が見え、白いビーチと青い海が広がる光景を目にした瞬間、胸が高鳴ったのを今でも覚えています。

この「林を抜けると広がる白浜と海」の記憶は、私にとって大切な原風景です。そして、この風景こそが「アーマン浜」という作品を生み出す大きな動機となりました。


夜に動き回るヤドカリたち

アーマン、つまりヤドカリは夜行性の生き物です。昼間は岩陰や砂の中に潜み、夜になると砂浜に出てきて活発に動き回ります。アダンの実を食べたり、小さな貝殻を探したり、まるで夜の宴のように浜辺を駆け巡るのです。

朝、明るい光の下で砂浜を歩くと、大小さまざまなヤドカリの足跡がびっしりと残されています。その数は驚くほど多く、無数の宴の跡がそこに広がっているのです。私はそれを見て「昨夜はきっと盛り上がったのだろうな」と想像を膨らませました。

この「足跡だけが残る」という光景は、自然が描いた詩のようでもあり、人間の営みにも重なるものを感じさせます。見えない夜の賑わいを想像すること――そこに自然の面白さと神秘を強く感じました。


沖縄に宿る日常の物語

沖縄には古来より数多くの民謡や伝承があります。人々の暮らしや歴史の中から生まれ、語り継がれてきた物語は文化の大切な宝です。ですが、私が紅型で表現したいのは「歌や伝承に残る有名な物語」だけではありません。

「自然の中に潜む物語」こそ、日々の暮らしに根付いた沖縄の真の姿を映し出すのではないか。そう考えています。アーマン浜もその一つです。誰もが当たり前のように見ている光景の中に、物語は隠れています。それを作品として形にすることこそ、紅型の新しい役割だと感じています。


技法的な挑戦 ― 型紙の強度と構図

今回の作品では、技法的にも一つの挑戦を試みました。それは「図柄をできるだけつなげる」ことです。特にアダン林を表現する部分では、木漏れ日のような雰囲気を出したいと思い、細部を切り離さず可能な限りつなげるように意識しました。

この工夫は単なるデザイン上の意図だけではありません。型紙自体の強度を高めるための工夫でもあります。

かつて紅型の型紙は「和紙」に柿渋を塗った「渋紙」と呼ばれるものでした。強度が十分でなかったため、図柄を細かく切り離すとすぐに壊れてしまうのです。そのため昔の職人たちは、図柄をつなげたり、できるだけ切れ目を減らすことで型紙を守る知恵を働かせていました。

近年、型紙の材料は改良され強度が上がりました。これにより、昔では不可能だった自由な表現ができるようになったのは事実です。しかし、あえて昔ながらの工夫を取り入れることで生まれる「新しい表現」もあります。今回の作品はその両方を取り入れ、技法の歴史を踏まえながら新しい構図に挑戦しました。


波打ち際の貝殻たち

作品にはもう一つ重要な要素があります。それは波打ち際に打ち寄せられる貝殻たちです。

砂浜に並ぶ貝殻をよく観察すると、その一つひとつに異なる時間の物語が刻まれています。最近死んだばかりの新しい貝、20年30年と長い年月を波にさらされ薄くなった貝、色も形も異なるさまざまな貝が、波の文様に沿って打ち寄せられます。

そこには生命の循環と時間の流れがあり、ヤドカリの宴と同じように、自然が織り成す物語を私たちに伝えているのです。


作品「アーマン浜」に込めた想い

「アーマン浜」は、私にとって沖縄の自然と幼少期の原風景が重なった作品です。
アダン林を抜けた先に広がる白砂と青い海。夜の浜辺で繰り広げられるヤドカリたちの宴。波打ち際に並ぶ無数の貝殻。その一つひとつが沖縄の自然と文化を語り、また私自身の心を育ててくれた原点でもあります。

この作品には「自然の中にある物語を見つけ、形にする」という思いと、「技法に挑戦し続ける」という姿勢を込めました。紅型は単なる装飾ではなく、自然と人の物語をつなぎ、未来へと伝えるものです。


おわりに

私たちの工房は、300年にわたり紅型を作り続けてきました。その歴史の中で培われた技術や感覚に、今の私自身の経験や感動を重ねていくこと――それが新しい作品を生み出す原動力となっています。

「アーマン浜」が、沖縄の自然に潜む小さな物語を感じていただけるきっかけになれば幸いです。そしてその物語が、皆さんの心にある記憶や体験と重なり合い、やがては皆さん自身の物語の一部となって紡がれていく。そんな風に、紅型を通じてつながる時間や感覚を、これからも分かち合えたらと願っています。

公式ホームページでは、紅型の歴史や伝統、私自身の制作にかける思いなどを、やや丁寧に、文化的な視点も交えながら発信しています。一方でInstagramでは、職人の日常や工房のちょっとした風景、沖縄の光や緑の中に息づく“暮らしに根ざした紅型”の表情を気軽に紹介しています。たとえば、朝の染料作りの様子や、工房の裏庭で揺れる福木の葉っぱ、時には染めたての布を空にかざした一瞬の写真など、ものづくりの空気感を身近に感じていただける内容を心がけています。

紅型は決して遠い伝統ではなく、今を生きる私たちの日々とともにあるものです。これからも新しい挑戦と日々の積み重ねを大切にしながら、沖縄の染め物文化の魅力を発信し続けていきたいと思います。ぜひInstagramものぞいていただき、工房の日常や沖縄の彩りを一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。

城間栄市 プロフィール昭和52年(1977年)、沖縄県生まれ。

城間びんがた工房十五代・城間栄順の長男として育つ。

学歴・海外研修

  • 平成15年(2003年)より2年間、インドネシア・ジョグジャカルタ特別州に滞在し、バティック(ろうけつ染)を学ぶ。
  • 帰国後は城間びんがた工房にて、琉球びんがたの制作・指導に専念。

受賞・展覧会歴

  • 平成24年:西部工芸展 福岡市長賞 受賞
  • 平成25年:沖展 正会員に推挙
  • 平成26年:西部工芸展 奨励賞 受賞
  • 平成27年:日本工芸会 新人賞を受賞し、正会員に推挙
  • 令和3年:西部工芸展 沖縄タイムス社賞 受賞
  • 令和4年:MOA美術館 岡田茂吉賞 大賞 受賞
  • 令和5年:西部工芸展 西部支部長賞 受賞

主な出展

  • 「ポケモン工芸展」に出展
  • 文化庁主催「日中韓芸術祭」に出展
  • 令和6年:文化庁「技を極める」展に出展

現在の役職・活動

  • 城間びんがた工房 十六代 代表
  • 日本工芸会 正会員
  • 沖展(沖縄タイムス社主催公募展)染色部門 審査員
  • 沖縄県立芸術大学 非常勤講師

プロフィール概要

はじめまして。城間びんがた工房16代目の城間栄市です。私は1977年、十五代・城間栄順の長男として沖縄に生まれ、幼いころから紅型の仕事に親しみながら育ちました。工房に入った後は父のもとで修行を重ねつつ、沖縄県芸術祭「沖展」に初入選したことをきっかけに本格的に紅型作家として歩み始めました。

これまでの道のりの中で、沖展賞や日本工芸会の新人賞、西部伝統工芸展での沖縄タイムス社賞・西部支部長賞、そしてMOA美術館の岡田茂吉賞大賞など、さまざまな賞をいただくことができました。また、沖展の正会員や日本工芸会の正会員として活動しながら、審査員として後進の作品にも向き合う立場も経験しています。

私自身の制作で特に印象に残っているのは、「波の歌」という紅型着物の作品です。これは沖縄の海を泳ぐ生き物たちの姿を、藍型を基調とした布に躍動感をもって表現したものです。伝統の技法を守りつつ、そこに自分なりの視点や工夫を重ねることで、新しい紅型の可能性を切り拓きたいという思いが込められています。こうした活動を通して、紅型が沖縄の誇る伝統工芸であるだけでなく、日本、そして世界に発信できるアートであると感じています。

20代の頃にはアジア各地を巡り、2003年から2年間はインドネシア・ジョグジャカルタでバティック(ろうけつ染)を学びました。現地での生活や工芸の現場を通して、異文化の技術や感性にふれ、自分自身の紅型への向き合い方にも大きな影響を受けました。伝統を守るだけでなく、常に新しい刺激や発見を大切にしています。

最近では、「ポケモン×工芸展―美とわざの大発見―」など、世界を巡回する企画展にも参加する機会が増えてきました。紅型の技法でポケモンを表現するというチャレンジは、私自身にとっても大きな刺激となりましたし、沖縄の紅型が海外のお客様にも響く可能性を感じています。

メディアにも多く取り上げていただくようになりました。テレビや新聞、ウェブメディアで工房の日常や制作現場が紹介されるたびに、「300年前と変わらない手仕事」に込めた想いを、多くの方に伝えたいと強く思います。