栄喜の未来日記
2025.11.29
――闇の世に立ちゅる幼子のうちなわ しばし待てぃり嵐どきら――
祖父が戦後二年目の首里に戻ったとき、そこにあったのは「ふるさと」という言葉では到底包みきれない、焼け野原の静けさだったという。疎開先から戻ったその足で、瓦礫の間に立ち尽くし、遠く金城町の石畳を見つめた祖父は、思わず一つの琉歌を口ずさんだ。
闇の世に 立ちゅる幼子のうちなわ
しばし待てぃり 嵐どきら
闇の世に置かれた幼子のように心細い沖縄。
どうか少し待っていてください、
私がこの嵐を退けて見せましょう――。
それは祖父が沖縄に向けて歌った祈りであり、同時に、
わずか三十八歳の自分自身を励ますための言葉でもあったのだろう。
失われた土地に立つ者の孤独と、そこから未来を引き寄せようとする意志が、静かに交わっている。
紅型を未来へ残すという誓いは、まさしくその瞬間の決意だった。戦前まで王府の保護のもとにあった誇り高き工芸が、戦火によって跡形もなく消えかけていた。けれど祖父は、その色と文様が背負ってきた祈りと美しさを、未来に渡さなければならないと信じた。
あるいは、そう信じなければ、自らの心が折れてしまいそうだったのかもしれない。
◆
私たちは現代の沖縄で、当たり前のように紅型を手にし、200年変わらない手仕事の美しさに触れている。しかし、その当たり前は、祖父のような一人ひとりが闇の世で積み重ねた小さな「生きる工夫」の結晶である。
ものづくりの世界ではいつだって、私たちはのんびりとした気質を抱えながらも、先人の努力や苦労にに深く感謝し、自分なりの“価値”を見つけては日々の仕事に向き合ってきた。何かを知りたいと思ってくれる人、紅型に関心を寄せる人、その好奇心がどれほど私たちの背中を押してきたことだろう。
チャレンジの日々を支えてくれる皆さまに、心からの感謝を伝えたい。




◆
改めて、祖父の物語に戻ろう。
戦後、手に入る道具も材料も限られていた。だが「ないなら、探す」「なければ、工夫する」という気持ちこそが、祖父の未来日記の一行一行を支えていた。
ある日、アメリカ兵たちが使い古して捨てていったテーブルクロスを見つける。泥や油で汚れていても、広げれば、どこかに白い部分が残っている。それを丁寧に切り取り、タペストリーとして染め始めた。次に必要なのは色である。しかし、岩絵具のような顔料はどこにもない。
ふと足元を見ると、崩れた赤瓦が落ちていた。「これを砕いて色が生まれないだろうか」。
その試みは、思いのほか柔らかくあたたかな色を生んだ。
また別の日には、アメリカ人の奥様方が捨てた口紅を見つけた。底に残ったわずかな赤紫を爪楊枝で掻き出し、大豆の豆汁で溶かして染める。そこにはコチニールならではの美しい紫が宿っていた。







材料が一つ手に入ると、一つの物語を染めることができる。
明日はもっとこうしてみよう。
来週はこの工夫を試してみたい。
来年は日本に渡れたら、良い道具が手に入るかもしれない。
未来が遠くからではなく、自分の手元に近づいてくるようだった。
◆
祖父が特にこだわったのは「型紙を彫る刃物」だった。紅型の命は型紙であり、刃がなければ始まらない。しかし、戦後の瓦礫の中に、鍛冶屋が鍛えた鋼などあるはずもない。
祖父は時計の秒針、自転車のスポーク、トイレの金属部品、あらゆる鉄片を拾い上げ、研ぎ、試し、失敗し、また研ぎ続けたという。
ようやく適した硬さと密度を持つ金属に出会ったとき、
彫られた型紙は、驚くほど清潔で切れ味の良い線を刻んだ。
初めて光にかざした瞬間、祖父の口から思わず言葉がこぼれた。
「さあ、生まれさせよう」
祈るように、静かに自分を超えていくものが立ち上がる。
◆
祖父が未来に託した思い。その中心には、幼いころ父・栄松と過ごした静かな時間があったという。仕事の手つき、道具の扱い、布に向かう姿勢。その全てが、「受け継ぐ」という言葉の本質を教えてくれた。
目に見える技術ではなく、心の奥に沈む気配として。
祖父は、その手の内に残された確かな現実こそが、
「未来へ渡すべきものだ」と信じたのだ。
もしこの祈りを繋いでいけば、どんな時代が訪れても、
沖縄の子どもたちは豊かに生きていけるだろう――。
その信念が、祖父の歩みを支えてきた。
◆
風が吹き抜ける金城町の石畳で、祖父は再びあの琉歌を口ずさんだ。
闇の世に 立ちゅる幼子のうちなわ
しばし待てぃり 嵐どきら
その言葉は、未来に向けた手紙でもあった。
焼け野原の中で思い描かれた未来。
それは、ひとりの誰かの夢ではなく、
あの時代を生きた多くの人々の胸の奥に、
かすかな灯りのようにともっていたものだったのかもしれない。
紅型が再び息を吹き返す日が来ることなど、
あの頃はほとんど想像さえできなかった。
瓦礫の上に立つとき、
見えるのは失われた風景と、
消えてしまった色の記憶だけだった。
それでも、いくつもの手が動き続けた。
祖父も、当時の職人たちも、
生きるために、そしてただ日々を前に進めるために、
染め、刷り、洗い、乾かし、
また次の日も同じように手を動かしていった。
その“続けるという行為”の中に、
言葉にはならない未来への気配があったのだと思う。
希望は、大きな声で語られたわけではない。
誰かが前で旗を振っていたわけでもない。
むしろ、多くは沈黙の中にあり、
互いの背中越しに伝わっていくような、
淡く、しかし確かな願いだった。
やがて時代が進み、
紅型を学ぶ人が現れ、
作品を手に取る人が増え、
沖縄らしい色と、
他文化と響き合う自由な表現が育っていく。
その姿を、焼け野原を知る世代が見たとすれば、
どれほど不思議に感じただろう。
まるで、あの闇の中で手探りで置いた小さな石が、
気づけば長い道として続いていたような、
そんな感覚に近いのかもしれない。
首里の街を歩くときがある。
戦後、地面がむき出しになり、
家も仕事も未来も失われたあの場所に、
いまは人が集まり、
子どもの笑い声が響き、
旅人の足音が重なり、
色彩のある時間が流れている。
その風景にふと触れると、
胸の奥に静かな熱が生まれることがある。
奇跡という言葉を軽々しく使いたくないけれど、
この光景には、ただの偶然では語れないものがある。
暗闇を前にしながら、
見えない未来を、それでも信じようとした人々の手が、
確かにあったのだ、と思わされる。
未来はいつも、
誰かひとりの意志だけで作られるわけではない。
声に出さずとも、願いは集まり、
集まった願いが、見えない形で時代を押し動かしていく。
焼け野原の時代にあった静かな祈りが、
いま目の前にひらけているこの風景につながっている。
その連なりの中に、
紅型も、首里も、そして私たち自身の営みもある。
2025年のこの地で紅型を続けている私たちの生き方そのものが、
祖父が書き残した“未来日記”の答えになっているようにも思える。
文化は変わる。影響を受け、交流し、揺れ動き、また新しい形を生む。
正解はない。
ただ、今日も挑み続けるその心こそが、
祖父の誓いを受け継ぐ唯一の道なのだ。
そして、その挑戦を見つめてくれる皆さまの好奇心が、
私たちの灯りであり続けていることを、
改めて深く感謝を持って伝えたい。
















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Instagram https://www.instagram.com/shiromabingata16/
公式ホームページでは、紅型の歴史や伝統、私自身の制作にかける思いなどを、やや丁寧に、文化的な視点も交えながら発信しています。一方でInstagramでは、職人の日常や工房のちょっとした風景、沖縄の光や緑の中に息づく“暮らしに根ざした紅型”の表情を気軽に紹介しています。たとえば、朝の染料作りの様子や、工房の裏庭で揺れる福木の葉っぱ、時には染めたての布を空にかざした一瞬の写真など、ものづくりの空気感を身近に感じていただける内容を心がけています。
紅型は決して遠い伝統ではなく、今を生きる私たちの日々とともにあるものです。これからも新しい挑戦と日々の積み重ねを大切にしながら、沖縄の染め物文化の魅力を発信し続けていきたいと思います。ぜひInstagramものぞいていただき、工房の日常や沖縄の彩りを一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。

城間栄市 プロフィール昭和52年(1977年)、沖縄県生まれ。
城間びんがた工房十五代・城間栄順の長男として育つ。
学歴・海外研修
- 平成15年(2003年)より2年間、インドネシア・ジョグジャカルタ特別州に滞在し、バティック(ろうけつ染)を学ぶ。
- 帰国後は城間びんがた工房にて、琉球びんがたの制作・指導に専念。
受賞・展覧会歴
- 平成24年:西部工芸展 福岡市長賞 受賞
- 平成25年:沖展 正会員に推挙
- 平成26年:西部工芸展 奨励賞 受賞
- 平成27年:日本工芸会 新人賞を受賞し、正会員に推挙
- 令和3年:西部工芸展 沖縄タイムス社賞 受賞
- 令和4年:MOA美術館 岡田茂吉賞 大賞 受賞
- 令和5年:西部工芸展 西部支部長賞 受賞
主な出展
- 「ポケモン工芸展」に出展
- 文化庁主催「日中韓芸術祭」に出展
- 令和6年:文化庁「技を極める」展に出展
現在の役職・活動
- 城間びんがた工房 十六代 代表
- 日本工芸会 正会員
- 沖展(沖縄タイムス社主催公募展)染色部門 審査員
- 沖縄県立芸術大学 非常勤講師
プロフィール概要
はじめまして。城間びんがた工房16代目の城間栄市です。私は1977年、十五代・城間栄順の長男として沖縄に生まれ、幼いころから紅型の仕事に親しみながら育ちました。工房に入った後は父のもとで修行を重ねつつ、沖縄県芸術祭「沖展」に初入選したことをきっかけに本格的に紅型作家として歩み始めました。
これまでの道のりの中で、沖展賞や日本工芸会の新人賞、西部伝統工芸展での沖縄タイムス社賞・西部支部長賞、そしてMOA美術館の岡田茂吉賞大賞など、さまざまな賞をいただくことができました。また、沖展の正会員や日本工芸会の正会員として活動しながら、審査員として後進の作品にも向き合う立場も経験しています。
私自身の制作で特に印象に残っているのは、「波の歌」という紅型着物の作品です。これは沖縄の海を泳ぐ生き物たちの姿を、藍型を基調とした布に躍動感をもって表現したものです。伝統の技法を守りつつ、そこに自分なりの視点や工夫を重ねることで、新しい紅型の可能性を切り拓きたいという思いが込められています。こうした活動を通して、紅型が沖縄の誇る伝統工芸であるだけでなく、日本、そして世界に発信できるアートであると感じています。
20代の頃にはアジア各地を巡り、2003年から2年間はインドネシア・ジョグジャカルタでバティック(ろうけつ染)を学びました。現地での生活や工芸の現場を通して、異文化の技術や感性にふれ、自分自身の紅型への向き合い方にも大きな影響を受けました。伝統を守るだけでなく、常に新しい刺激や発見を大切にしています。
最近では、「ポケモン×工芸展―美とわざの大発見―」など、世界を巡回する企画展にも参加する機会が増えてきました。紅型の技法でポケモンを表現するというチャレンジは、私自身にとっても大きな刺激となりましたし、沖縄の紅型が海外のお客様にも響く可能性を感じています。
メディアにも多く取り上げていただくようになりました。テレビや新聞、ウェブメディアで工房の日常や制作現場が紹介されるたびに、「300年前と変わらない手仕事」に込めた想いを、多くの方に伝えたいと強く思います。