「びんがたの島、手しごとの今。」〜300年つづく琉球工房の“普通の日”から〜

変わらない手しごと、変わり続ける時代のなかで

〜城間びんがた工房の日々より〜


はじめに

皆さん、おはようございます。
いつも城間びんがた工房の活動に温かい関心をお寄せいただき、心から感謝しております。そして皆さまの好奇心や応援が、私たちの挑戦を支える原動力になっています。琉球王国時代から続く紅型(びんがた)は、私たちの生活や文化と深く結びついてきました。
このコラムでは、日々の小さな風景や工房のささやかな日常、そして琉球文化を受け継いできた家族と地域の物語を、できるだけ率直にお伝えしていきたいと思います。


琉球びんがたの源流

琉球びんがたは、元々は琉球王朝時代の王族・士族たちの衣装として生まれ、発展してきました。
王府が職人たちに制作を命じ、その技術や意匠が時代ごとに磨かれていきました。
沖縄という島の、どこかのんびりとした時間の流れ、豊かな自然、独自の美意識がびんがたの世界を育み、300年以上経った今も、基本的な作り方はほとんど変わっていません。

とはいえ、すべてがそのまま受け継がれてきたわけではありません。
現代では手に入らない天然材料や、人体への影響から使えなくなった顔料などもあります。
それでも“できる限り変えずに受け継ぐ”というのが、私たち工房の信念です。
「なぜそこまで守り続けるのか」と問われれば、それは「先人たちが生きてきた証がこの技にあるから」としか言いようがありません。

型置きをした後 干している様子
型紙と型置き後の着尺です
顔料の入った茶碗
試し染めの布(麻)染めの日は毎日 5分間の試し染めをしてから段取りを考えます
ルクジュー(島豆腐を乾燥させた下敷き) と しぃーぐ(方彫り用の小刀)
帯を色差ししています

戦後の焼け野原から

私は16代目として工房を預かり、びんがた作りを生業としていますが、このバトンを受け取ってからもう13年が経ちました。

祖父(14代・栄喜)の時代、沖縄戦ですべてが焼け野原になりました。
首里城は通信基地として使われ、周囲の一帯は徹底的な攻撃を受けた地域です。
家も資料も、道具も、ほとんどすべて失われたなかで、祖父は“何ひとつ疑わず”文化復興の道へ踏み出しました。

あの時代に、びんがたを復活させることに異を唱える人はいなかったでしょう。
「沖縄の文化を守るのだ」「王朝の誇りをもう一度」と、心の底から信じて、ただ黙々とコツコツ手を動かしていた祖父の姿が今も目に浮かびます。

祖父・栄喜は、首里城が再建された平成4年(1992年)、その復興を見届けるようにして亡くなりました。
祖父の命日は6月9日――工房でも静かに手を合わせる日です。


和服への挑戦と「守る」ということ

続く父(15代・栄順)の時代。
沖縄は本土復帰という大きな転換点を迎えました。
父は、祖父が守り抜いた技術を使い、日本の和服、着物の世界に挑みました。

なぜ和服なのか――。
沖縄の伝統衣装だけでは、びんがたの高度な技術や表現を存続・発展させるのが難しくなっていく。
“王国の栄えあるものづくり”を未来へつなぐためには、より厳しい技術レベルが求められる和服の世界へ飛び込む必要がある――。
父はそう直感し、ほとんど迷わず、着物・帯・連続模様といった分野へ進んでいきました。

当時は異論も多くありました。
「なぜ沖縄独自の文化を“和”へ迎合するのか?」という声もありました。
それでも父は、自分が正しいと思った道を、黙々と歩み続けたのです。

祖父の「栄喜」は、復興と繁栄への願いをこめて。
父の「栄順」は、コツコツと地味な工芸に心を込めて、順序よく積み上げてきた人でした。
ふたりの生き方が、そのまま工房のものづくりの“背骨”になっています。


変わらないもの、変わってきたもの

13年前にバトンを受け取った私は、こうした家族の歴史や、先人たちの苦労と誇りを背負いながら、日々の制作に向き合っています。
琉球、沖縄、日本、中国…さまざまな文化が交差するこの島で、多様性を受け入れ、育ててきたびんがたの歴史は、いまや私たちの日常そのものです。

工房で使う糊の塩加減や顔料の滲み方に悩み抜いたり、昔ながらの技術に四苦八苦したり――。
「どうして今どき、こんなアナログなことで頭を悩ませているのだろう?」
ふと不思議な気持ちになることもありますが、それこそが“手しごとの面白さ”であり、時代を超えたものづくりの本質だとも思います。


写真で切り取る「2025年6月」の日常

このコラムで掲載している写真は、2025年6月の工房の日常そのものです。
道具を作る手、色を試す姿、乾かされた布…
どれもごくささやかな一瞬ですが、すべてが「生きている伝統」の断片です。

時代がどんなに進んでも、びんがたの根底にある“受け継ぐ力”“続ける覚悟”は変わりません。
多様性を守り、外からの文化を柔軟に受け入れながらも、島の風土に根付いた表現を模索してきた――。
その積み重ねが今の工房を支えています。


伝統と日常

びんがたの世界は決して派手なものではありません。
むしろ、どこまでも地味で、素朴な手しごと。
けれど、その一歩一歩に、沖縄の誇りと、職人たちの息遣いが詰まっています。

時代の最先端がさらに加速していく今、アナログな悩みや失敗に本気で向き合う人間がいる――。
そんな“手作業の美学”を、これからもこの場で記録し、伝えていきたいと思います。


最後に

コラムでは真面目な話を中心にお届けしていますが、よりラフでタイムリーな日常や職人の工夫・道具の作り方などは、ぜひInstagramでもご覧ください。
城間びんがた工房では、それぞれの工房のやり方や技術の違いも尊重しつつ、「自分たちなりのやり方」を率直に紹介しています。

道具・職人・作り手・ファン…
みんなで一緒に“びんがた”という物語を紡いでいること、その最前線を、これからもこのコラムで発信していきます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
日々の挑戦と日常の継続、そのすべては、皆さまの好奇心と応援のおかげです。
これからもどうぞ、よろしくお願いいたします。


水洗いしたての 帯 着物

公式ホームページでは、紅型の歴史や伝統、私自身の制作にかける思いなどを、やや丁寧に、文化的な視点も交えながら発信しています。一方でInstagramでは、職人の日常や工房のちょっとした風景、沖縄の光や緑の中に息づく“暮らしに根ざした紅型”の表情を気軽に紹介しています。たとえば、朝の染料作りの様子や、工房の裏庭で揺れる福木の葉っぱ、時には染めたての布を空にかざした一瞬の写真など、ものづくりの空気感を身近に感じていただける内容を心がけています。

紅型は決して遠い伝統ではなく、今を生きる私たちの日々とともにあるものです。これからも新しい挑戦と日々の積み重ねを大切にしながら、沖縄の染め物文化の魅力を発信し続けていきたいと思います。ぜひInstagramものぞいていただき、工房の日常や沖縄の彩りを一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。

城間栄市 プロフィール昭和52年(1977年)、沖縄県生まれ。

城間びんがた工房十五代・城間栄順の長男として育つ。

学歴・海外研修

  • 平成15年(2003年)より2年間、インドネシア・ジョグジャカルタ特別州に滞在し、バティック(ろうけつ染)を学ぶ。
  • 帰国後は城間びんがた工房にて、琉球びんがたの制作・指導に専念。

受賞・展覧会歴

  • 平成24年:西部工芸展 福岡市長賞 受賞
  • 平成25年:沖展 正会員に推挙
  • 平成26年:西部工芸展 奨励賞 受賞
  • 平成27年:日本工芸会 新人賞を受賞し、正会員に推挙
  • 令和3年:西部工芸展 沖縄タイムス社賞 受賞
  • 令和4年:MOA美術館 岡田茂吉賞 大賞 受賞
  • 令和5年:西部工芸展 西部支部長賞 受賞

主な出展

  • 「ポケモン工芸展」に出展
  • 文化庁主催「日中韓芸術祭」に出展
  • 令和6年:文化庁「技を極める」展に出展

現在の役職・活動

  • 城間びんがた工房 十六代 代表
  • 日本工芸会 正会員
  • 沖展(沖縄タイムス社主催公募展)染色部門 審査員
  • 沖縄県立芸術大学 非常勤講師

プロフィール概要

はじめまして。城間びんがた工房16代目の城間栄市です。私は1977年、十五代・城間栄順の長男として沖縄に生まれ、幼いころから紅型の仕事に親しみながら育ちました。工房に入った後は父のもとで修行を重ねつつ、沖縄県芸術祭「沖展」に初入選したことをきっかけに本格的に紅型作家として歩み始めました。

これまでの道のりの中で、沖展賞や日本工芸会の新人賞、西部伝統工芸展での沖縄タイムス社賞・西部支部長賞、そしてMOA美術館の岡田茂吉賞大賞など、さまざまな賞をいただくことができました。また、沖展の正会員や日本工芸会の正会員として活動しながら、審査員として後進の作品にも向き合う立場も経験しています。

私自身の制作で特に印象に残っているのは、「波の歌」という紅型着物の作品です。これは沖縄の海を泳ぐ生き物たちの姿を、藍型を基調とした布に躍動感をもって表現したものです。伝統の技法を守りつつ、そこに自分なりの視点や工夫を重ねることで、新しい紅型の可能性を切り拓きたいという思いが込められています。こうした活動を通して、紅型が沖縄の誇る伝統工芸であるだけでなく、日本、そして世界に発信できるアートであると感じています。

20代の頃にはアジア各地を巡り、2003年から2年間はインドネシア・ジョグジャカルタでバティック(ろうけつ染)を学びました。現地での生活や工芸の現場を通して、異文化の技術や感性にふれ、自分自身の紅型への向き合い方にも大きな影響を受けました。伝統を守るだけでなく、常に新しい刺激や発見を大切にしています。

最近では、「ポケモン×工芸展―美とわざの大発見―」など、世界を巡回する企画展にも参加する機会が増えてきました。紅型の技法でポケモンを表現するというチャレンジは、私自身にとっても大きな刺激となりましたし、沖縄の紅型が海外のお客様にも響く可能性を感じています。

メディアにも多く取り上げていただくようになりました。テレビや新聞、ウェブメディアで工房の日常や制作現場が紹介されるたびに、「300年前と変わらない手仕事」に込めた想いを、多くの方に伝えたいと強く思います。