沖縄の風と釣り道具が語る記憶

父から受け継いだ大切なもの

父から受け継いだ大切なものの一つに、画像にあるような釣りの道具たちがあります。これらは「ウキ」と呼ばれる道具で、釣りの仕掛けを浮かせるためのものです。しかし、これらはすべて購入したものではありません。むしろ、それぞれが父の工夫や修理を重ねながら生まれたものでした。今回は、この道具にまつわるエピソードを少しお話ししたいと思います。

私たちは、琉球時代から続く伝統工芸である紅型(びんがた)を沖縄で制作している「城間びんがた工房」といいます。私は16代目であり、現在も祖先から受け継がれた技術を守り続けています。この工房の歴史には、祖父や父の苦労と工夫が深く刻まれています。

祖父・栄喜の時代

祖父・栄喜は、第二次世界大戦を38歳で迎えました。沖縄戦の直後、焦土と化した地での生活は非常に厳しいものでした。戦後、生活必需品に直結しない紅型という伝統工芸を続けることは容易ではありませんでした。それでも祖父は、「この伝統を絶やしてはならない」という強い信念を持ち、城間家の門を広げ、多くの人々に紅型の技術を伝え始めました。

しかし、伝統工芸の仕事だけで生活を維持することは難しく、家族の生計を支えるため、祖父は沖縄の海で釣りをしながら食料を確保していました。祖父の幼少期の話を聞いたことがありますが、祖父は10歳のときに石垣島に奉公に出されたといいます。反物を50反盗まれその代金を家族が払うことができずに、10年間も石垣島で理容室で働きながら、漁師としても働いていたと聞いています。この経験から、祖父は釣りの技術を身につけ、その腕前は戦後の厳しい時期にも家族を支える力となりました。

父・栄順の時代

私の父・栄順は、9歳で終戦を迎えました。戦後の混乱期に、祖父とともに釣りをしながら家業を手伝い、家庭を支えてきたといいます。父もまた、祖父から釣りの技術を受け継ぎ、その腕は確かでした。父の釣りに関する情熱は並々ならぬもので、私が子どもの頃の記憶でも、父が仕事以外の時間を釣りに費やしていた姿が鮮明に残っています。

手作りの道具たち

父が使っていた釣り道具の多くは、市販のものではなく、漁港で見つけた捨てられた道具や漂流物を再利用して作ったものでした。父は、それらを拾い集め、丁寧に手入れをし、自分好みにカスタマイズしていきました。一つひとつの道具には、父の工夫と手間が詰まっており、釣りの時間が単なる趣味を超えた「父の創造の時間」だったことを、今になって理解しています。

例えば、ウキの塗装をし直してバランスを調整したり、錘(おもり)を最適な形に削り直したりと、父の物作りの工夫が随所に見られました。それらの道具は、ただ釣りのためのものではなく、父にとっての「ものづくりの延長」でもあったのだと思います。

釣りの時間と思い出

私自身も、幼い頃から父と釣りに出かけることが日常の一部でした。父が釣りをする姿は、まさに集中そのもので、私はそのそばで魚が釣れる瞬間を見守りながら、父の手元の動きや言葉を覚えていきました。釣りの時間は、ただ魚を獲るだけではなく、自然と向き合う中で何かを感じ取る大切な時間だったのだと、今になって気づきます。

そしてある日、父が釣りを辞めると決めたとき、その道具を私に託してくれました。「これをお前が使え」と言われたときの感覚は、言葉では表しきれないものでした。父が手を加え、長年大切にしてきた道具を受け取ることで、その思いや技術までも受け継ぐような気がしたのです。

これらの道具を見ていると、釣りをしていた父の姿や、祖父の話を聞かせてくれた母の声が思い出され、なんとも言えない気持ちになります。子供の頃や青年時代には、正直この道具が少し古臭く、どこか野暮ったく感じられることもありました。特に、私が成長する中で釣り道具が急激に進化し、大量生産された機能的な道具や作家が手がけた美しいウキが登場した時代を見てきたからこそ、「機能性としてどうなのだろう?」という疑問を持つこともありました。

しかし今、こうして父や祖父が残した道具たちを手に取ると、それが単なる物ではなく「生きた道具」であることを感じます。限られた状況の中で工夫を重ね、家族のために使い続けられた道具たちは、時代を超えた温もりと重みを持っています。ものづくりの道を歩む私にとって、この釣り道具は「受け継ぐ」ということの意味を改めて教えてくれる、かけがえのない存在です。

公式ホームページでは、紅型の歴史や伝統、私自身の制作にかける思いなどを、やや丁寧に、文化的な視点も交えながら発信しています。一方でInstagramでは、職人の日常や工房のちょっとした風景、沖縄の光や緑の中に息づく“暮らしに根ざした紅型”の表情を気軽に紹介しています。たとえば、朝の染料作りの様子や、工房の裏庭で揺れる福木の葉っぱ、時には染めたての布を空にかざした一瞬の写真など、ものづくりの空気感を身近に感じていただける内容を心がけています。

紅型は決して遠い伝統ではなく、今を生きる私たちの日々とともにあるものです。これからも新しい挑戦と日々の積み重ねを大切にしながら、沖縄の染め物文化の魅力を発信し続けていきたいと思います。ぜひInstagramものぞいていただき、工房の日常や沖縄の彩りを一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。

城間栄市 プロフィール昭和52年(1977年)、沖縄県生まれ。

城間びんがた工房十五代・城間栄順の長男として育つ。

学歴・海外研修

  • 平成15年(2003年)より2年間、インドネシア・ジョグジャカルタ特別州に滞在し、バティック(ろうけつ染)を学ぶ。
  • 帰国後は城間びんがた工房にて、琉球びんがたの制作・指導に専念。

受賞・展覧会歴

  • 平成24年:西部工芸展 福岡市長賞 受賞
  • 平成25年:沖展 正会員に推挙
  • 平成26年:西部工芸展 奨励賞 受賞
  • 平成27年:日本工芸会 新人賞を受賞し、正会員に推挙
  • 令和3年:西部工芸展 沖縄タイムス社賞 受賞
  • 令和4年:MOA美術館 岡田茂吉賞 大賞 受賞
  • 令和5年:西部工芸展 西部支部長賞 受賞

主な出展

  • 「ポケモン工芸展」に出展
  • 文化庁主催「日中韓芸術祭」に出展
  • 令和6年:文化庁「技を極める」展に出展

現在の役職・活動

  • 城間びんがた工房 十六代 代表
  • 日本工芸会 正会員
  • 沖展(沖縄タイムス社主催公募展)染色部門 審査員
  • 沖縄県立芸術大学 非常勤講師

プロフィール概要

はじめまして。城間びんがた工房16代目の城間栄市です。私は1977年、十五代・城間栄順の長男として沖縄に生まれ、幼いころから紅型の仕事に親しみながら育ちました。工房に入った後は父のもとで修行を重ねつつ、沖縄県芸術祭「沖展」に初入選したことをきっかけに本格的に紅型作家として歩み始めました。

これまでの道のりの中で、沖展賞や日本工芸会の新人賞、西部伝統工芸展での沖縄タイムス社賞・西部支部長賞、そしてMOA美術館の岡田茂吉賞大賞など、さまざまな賞をいただくことができました。また、沖展の正会員や日本工芸会の正会員として活動しながら、審査員として後進の作品にも向き合う立場も経験しています。

私自身の制作で特に印象に残っているのは、「波の歌」という紅型着物の作品です。これは沖縄の海を泳ぐ生き物たちの姿を、藍型を基調とした布に躍動感をもって表現したものです。伝統の技法を守りつつ、そこに自分なりの視点や工夫を重ねることで、新しい紅型の可能性を切り拓きたいという思いが込められています。こうした活動を通して、紅型が沖縄の誇る伝統工芸であるだけでなく、日本、そして世界に発信できるアートであると感じています。

20代の頃にはアジア各地を巡り、2003年から2年間はインドネシア・ジョグジャカルタでバティック(ろうけつ染)を学びました。現地での生活や工芸の現場を通して、異文化の技術や感性にふれ、自分自身の紅型への向き合い方にも大きな影響を受けました。伝統を守るだけでなく、常に新しい刺激や発見を大切にしています。

最近では、「ポケモン×工芸展―美とわざの大発見―」など、世界を巡回する企画展にも参加する機会が増えてきました。紅型の技法でポケモンを表現するというチャレンジは、私自身にとっても大きな刺激となりましたし、沖縄の紅型が海外のお客様にも響く可能性を感じています。

メディアにも多く取り上げていただくようになりました。テレビや新聞、ウェブメディアで工房の日常や制作現場が紹介されるたびに、「300年前と変わらない手仕事」に込めた想いを、多くの方に伝えたいと強く思います。