守り神の微笑み 〜工房に息づくシーサーの物語〜

シーサーとともに生きる工房の歴史──紅型と首里の物語

沖縄の街を歩けば、いたるところで目にする「シーサー」。赤瓦の上や門柱のそばなど、家々を見守る守り神として、その存在感は独特です。ですが、シーサーは単なる置物ではありません。特に、私たちが営む城間びんがた工房の敷地内にいるシーサーたちには、戦後復興の激動の時代を生き抜いた職人たちの思いが込められています。本記事では、紅型とシーサーがどのように共存し、どのように首里という街の歴史と交わっているのかを、文化的視点を交えながらたっぷりとご紹介します。


1. シーサーとの暮らし──工房に宿る“守り神”たち

1-1. 日常的な見学を行わない理由

まず初めに、私たち城間びんがた工房は普段、観光客向けの見学を常時受け入れていません。これは、制作の環境を最優先に守っているためです。紅型は一つひとつの工程が職人の集中力に大きく左右されるため、多数の見学者が出入りする状況は本来の仕事に支障をきたす可能性があります。

加えて、首里という観光地にあるがゆえ、もし見学にいらっしゃる方が必ずしも伝統工芸に興味を持っていない場合、Win-Winの関係にならないという背景もあります。しかしながら「紅型の魅力を知ってもらいたい」「工房の雰囲気を感じてほしい」という想いは常にあるのです。そこで今回は、紅型作品とは直接関係がないようで深く繋がる、工房の敷地内で静かに見守るシーサーたちにスポットを当てたいと思います。

1-2. シーサーが象徴する“心の拠り所”

沖縄でシーサーといえば、家の屋根や門柱などに配置され、邪気を払う守り神として馴染み深い存在です。私たちの工房でも、シーサーたちが敷地のあちこちに佇み、職人や来訪者を優しく見守っています。その姿には、どこか愛嬌があり、近寄ってみると少しずつ表情が異なることに気づくでしょう。これは戦後の激動期を生きた職人たちが、ユーモアや前向きな思いを込めながら作り上げたからこそ生まれる“個性”なのです。


2. 首里の歴史と紅型──戦前と戦後の激動

2-1. 戦前、当蔵にあった工房

沖縄の伝統工芸、紅型(びんがた)は長らく琉球王国時代の王族や士族の衣装を染めるために発展しました。私たち城間びんがた工房のルーツも、もちろん首里の中心部に近い場所にありました。なかでも**「当蔵(とうのくら)」というエリアは、首里公民館がある区画として知られ、戦前から紅型職人が集まっていた地域の一つです。しかし、太平洋戦争の末期には首里一帯が戦火に包まれ、私たちの家や工房も消失**してしまったのです。

2-2. 戦後に移転した首里山川町

戦後の復興期、祖父の代となる職人たちは、家族とともに途方に暮れながらも首里山川町へ工房を再建しました。戦争による物資不足の中、まずは住む場所を確保し、工房を立ち上げるために石を積み、井戸を掘り、木材を確保するといった自給自足的な作業に取り組む毎日。紅型を染めるどころではない過酷な環境下で、彼らは**「シーサーを作ろう」**という祖父の言葉を胸に、漆喰や余った材料を使ってオリジナルのシーサーを作り始めたのです。


3. 職人たちが作ったシーサー──戦後復興期のユーモアと創意工夫

3-1. 「漆喰シーサー」の由来

昔の沖縄では、大工が家を建て終わった後に、**余った漆喰(しっくい)**や木材でシーサーを作り、屋根に載せる風習が一般的でした。漆喰は屋根の隙間を埋めるための素材であり、あまった分を利用して作られるシーサーを「漆喰シーサー」と呼ぶことがあります。

祖父はこれを応用し、工房にいる職人達にシーサーを作らせたのです。当時の職人たちは染色の技術こそ持っていましたが、粘土や漆喰での造形には不慣れ。困り果てた末に、己の顔や周りの人の表情を観察しながら、試行錯誤してシーサーを形にしていったといいます。

3-2. シーサー作りのの真意??

戦後の沖縄がまだ焼け野原の状態から立ち上がる中、人々が見知らぬ職種や作業に挑戦せざるを得なかった状況を思えば、このシーサー作りに象徴される“創意工夫”と“ユーモア”は、人々の心を支える大きな力だったのだと感じます。


4. シーサーが語りかけるメッセージ──優しさと力強さの象徴

4-1. 工房を見守る静かな存在

現在、城間びんがた工房の敷地内には、当時職人たちが作ったシーサーが点在しています。形や大きさ、表情はそれぞれ異なりますが、どれも戦後を生き抜いた人々の粘り強さを投影しているかのようです。一見無骨なフォルムでありながら、どこか愛らしい雰囲気が漂うのは、職人たちが想いを込めて作ったからこそでしょう。

4-2. 戦後復興のシンボル

シーサーは、沖縄の家々を守る存在として昔から親しまれてきましたが、私たちの工房にいるシーサーたちは、その役割以上に**“希望の灯”のような意味合いを持っていると感じます。戦火で失われた街を再建し、伝統工芸を再び軌道に乗せようとした祖父や職人たちの試行錯誤、そしてその苦労を少しでも和らげるようなユーモアや温かな心**が、シーサーの表情に刻まれているのです。


5. 紅型とシーサーが織りなす首里の物語

5-1. 観光地としての首里と工房の在り方

首里は、沖縄観光の中心地の一つですが、私たち工房は冒頭でも述べたように、日常的な見学を積極的には行っていません。これは、紅型づくりに集中できる環境を守ると同時に、本来の目的を共有できる方々に深く紅型や工房の文化を感じていただくための選択です。とはいえ、「紅型の魅力をより多くの人に知ってもらいたい」という気持ちは強く持ち続けています。


6. これからの紅型──“守り神”とともに歩む未来

6-1. 過去を知り、新しい価値を創造する

城間びんがた工房の歴史は、戦前から続く紅型の技術だけでなく、戦後の復興期に刻まれた人々の努力や工夫によって築かれたものです。シーサー作りのエピソードは、その一例にすぎませんが、過去を振り返ることで得られるヒントや価値観が、今の世代に新しい風を吹き込んでくれることを実感しています。紅型もまた、伝統を守りながら現代の感性を取り入れることで、未来に向けて進化し続けるでしょう。

6-2. 紅型を通じた“沖縄らしさ”の発信

沖縄が世界と繋がっていくうえで、紅型は地域の文化的アイデンティティを表現する強力なツールとなり得ます。私たちが作る紅型には、首里の土地に根付いた歴史や、家族と職人たちが紡いできた物語が宿っています。そしてシーサーたちは、その背景を静かに語りかけてくれる存在です。今後も、紅型の技術とシーサーが見守る工房の環境を大切にしつつ、海外や新たな分野への展開を目指していきたいと考えています。


まとめ──シーサーが見つめる先にある、紅型と首里の物語

シーサー、シーサー!
嬉しさぁ〜 楽しいさぁ〜 優しいさぁ〜 と唱えるような軽やかさで、私たちを見守る工房のシーサーたち。彼らの存在は、戦後の厳しい状況で祖父や職人たちが力を合わせ、ユーモアと創意工夫で生み出した“生きた証”のように感じられます。一見、紅型とは直接結びつかないように思えるシーサーですが、実は、紅型の制作環境と首里という土地の歴史を深く物語るキーパーソンなのです。

沖縄を訪れた際、あるいは首里の街を散策されるときに、こうしたシーサーの背景を思い浮かべてみてください。きっと彼らの表情に、今まで気づかなかった優しさや力強さを見出せることでしょう。そして、それは人と文化が織りなす“ものづくり”の温かさを感じる一歩となるはずです。紅型と首里の物語は、シーサーたちの視線を辿っていくことで、さらに奥深い世界へと広がっていきます

シーサー
キジムナー(ガジュマルに住んでいるとされている木の精霊)

公式ホームページでは、紅型の歴史や伝統、私自身の制作にかける思いなどを、やや丁寧に、文化的な視点も交えながら発信しています。一方でInstagramでは、職人の日常や工房のちょっとした風景、沖縄の光や緑の中に息づく“暮らしに根ざした紅型”の表情を気軽に紹介しています。たとえば、朝の染料作りの様子や、工房の裏庭で揺れる福木の葉っぱ、時には染めたての布を空にかざした一瞬の写真など、ものづくりの空気感を身近に感じていただける内容を心がけています。

紅型は決して遠い伝統ではなく、今を生きる私たちの日々とともにあるものです。これからも新しい挑戦と日々の積み重ねを大切にしながら、沖縄の染め物文化の魅力を発信し続けていきたいと思います。ぜひInstagramものぞいていただき、工房の日常や沖縄の彩りを一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。

城間栄市 プロフィール昭和52年(1977年)、沖縄県生まれ。

城間びんがた工房十五代・城間栄順の長男として育つ。

学歴・海外研修

  • 平成15年(2003年)より2年間、インドネシア・ジョグジャカルタ特別州に滞在し、バティック(ろうけつ染)を学ぶ。
  • 帰国後は城間びんがた工房にて、琉球びんがたの制作・指導に専念。

受賞・展覧会歴

  • 平成24年:西部工芸展 福岡市長賞 受賞
  • 平成25年:沖展 正会員に推挙
  • 平成26年:西部工芸展 奨励賞 受賞
  • 平成27年:日本工芸会 新人賞を受賞し、正会員に推挙
  • 令和3年:西部工芸展 沖縄タイムス社賞 受賞
  • 令和4年:MOA美術館 岡田茂吉賞 大賞 受賞
  • 令和5年:西部工芸展 西部支部長賞 受賞

主な出展

  • 「ポケモン工芸展」に出展
  • 文化庁主催「日中韓芸術祭」に出展
  • 令和6年:文化庁「技を極める」展に出展

現在の役職・活動

  • 城間びんがた工房 十六代 代表
  • 日本工芸会 正会員
  • 沖展(沖縄タイムス社主催公募展)染色部門 審査員
  • 沖縄県立芸術大学 非常勤講師

プロフィール概要

はじめまして。城間びんがた工房16代目の城間栄市です。私は1977年、十五代・城間栄順の長男として沖縄に生まれ、幼いころから紅型の仕事に親しみながら育ちました。工房に入った後は父のもとで修行を重ねつつ、沖縄県芸術祭「沖展」に初入選したことをきっかけに本格的に紅型作家として歩み始めました。

これまでの道のりの中で、沖展賞や日本工芸会の新人賞、西部伝統工芸展での沖縄タイムス社賞・西部支部長賞、そしてMOA美術館の岡田茂吉賞大賞など、さまざまな賞をいただくことができました。また、沖展の正会員や日本工芸会の正会員として活動しながら、審査員として後進の作品にも向き合う立場も経験しています。

私自身の制作で特に印象に残っているのは、「波の歌」という紅型着物の作品です。これは沖縄の海を泳ぐ生き物たちの姿を、藍型を基調とした布に躍動感をもって表現したものです。伝統の技法を守りつつ、そこに自分なりの視点や工夫を重ねることで、新しい紅型の可能性を切り拓きたいという思いが込められています。こうした活動を通して、紅型が沖縄の誇る伝統工芸であるだけでなく、日本、そして世界に発信できるアートであると感じています。

20代の頃にはアジア各地を巡り、2003年から2年間はインドネシア・ジョグジャカルタでバティック(ろうけつ染)を学びました。現地での生活や工芸の現場を通して、異文化の技術や感性にふれ、自分自身の紅型への向き合い方にも大きな影響を受けました。伝統を守るだけでなく、常に新しい刺激や発見を大切にしています。

最近では、「ポケモン×工芸展―美とわざの大発見―」など、世界を巡回する企画展にも参加する機会が増えてきました。紅型の技法でポケモンを表現するというチャレンジは、私自身にとっても大きな刺激となりましたし、沖縄の紅型が海外のお客様にも響く可能性を感じています。

メディアにも多く取り上げていただくようになりました。テレビや新聞、ウェブメディアで工房の日常や制作現場が紹介されるたびに、「300年前と変わらない手仕事」に込めた想いを、多くの方に伝えたいと強く思います。