「美しいものを残すということ」―未来に向けた紅型の役割

祖父栄喜の挑戦と決意

祖父栄喜が、父である栄松から引き継いだ紅型の仕事。これはただの技術や生業ではなく、祖父にとっては「先祖から授かった大切で尊いもの」でした。その背景には、紅型の美しさや色彩の持つ力、そして沖縄文化を後世に残すという強い使命感がありました。祖父が幼少期から青年期を過ごした石垣島での体験が、その思いをさらに強固にしたのではないかと感じています。

戦後の決意と琉球文化の復興

38歳で戦後を迎えた祖父は、疎開先から故郷の首里に戻り、壊滅的な光景を目の当たりにしました。首里城を含むすべてが焼け落ち、土台だけが残るその状況に、祖父は深い衝撃を受けたことでしょう。そして、その場で琉球文化の復興を心に誓いました。その思いが形になったものの一つが、戦後間もなく作られたポストカードです。

当時、沖縄も日本も戦後復興の時代。食べるものも着るものも住むところも満足にない状況の中で、贅沢品である伝統工芸品や飾り物を売ることは至難の業でした。そんな中、唯一購買力を持っていたアメリカ兵たちをターゲットに、自分たちで染めたポストカードを販売することになります。これは時代の流れから生まれた必然だったのかもしれません。

祖父は、避難小屋として暮らしていたテントの軒先に紐を張り、洗濯バサミでポストカードを並べて展示しました。それを見たアメリカ兵たちが興味を持ち、次々と購入していったそうです。こうして始まった戦後の城間びんがた工房でのものづくりは、まさにゼロからのスタートでした。

絵はがきに込められた想い

今改めて、そのポストカードを見ると、背筋が伸びる思いがします。なぜなら、祖父がどんな状況においても仕事に妥協せず、真摯に向き合っていたことがひしひしと伝わるからです。

当時、アメリカ兵たちは紅型や琉球文化について深く理解していたわけではないでしょう。それでも祖父は、「文化を伝えるためには手を抜いてはいけない」という信念を持って仕事に取り組みました。この絵はがきに見られる型紙の彫り込みは、非常に細かく正確で、簡単には真似できないものです。こうした彫り込みを実現するには、優れた刃物と多くの時間が必要です。

しかし、当時の道具は恵まれていませんでした。祖父は刃物の代わりに壁掛け時計の秒針や自転車の車輪の金具を拾い集め、それらを砥石で研ぎ直して使用していました。そうした道具でここまで精密な仕事を成し遂げるには、並外れた努力と技術が必要だったはずです。

「生まらすん」という祈り

「生まらすん」――これは沖縄の伝統工芸の作り手たちの間で大切にされてきた言葉です。「祈るように仕事をすると、実力を超えた良いものが思いがけず生まれる」という意味があります。戦前から戦後の沖縄で、そんな思いが多くの作り手たちの胸にあったと聞きます。

祖父も、戦後の苦労した時代の中で、この言葉を心の支えとしていたのではないでしょうか。ろくに照明もない薄暗がりの作業場、限られた道具しか手元にない中で、一つの美しい作品が仕上がったとき、祖父はきっと小躍りして喜んだことでしょう。そんな光景が目に浮かぶようです。

厳しい環境の中で培われた仕事には、強さとたくましさ、そしてそれを覆うような優しさが秘められているように感じます。それは、ただ困難に立ち向かうだけではなく、そこに人間の希望や祈りが込められているからこそ、私たちに響くのかもしれません。

文化を守る胆力

祖父の仕事に対する姿勢や、文化を守り抜こうとする胆力には、私も頭の下がる思いです。どれだけ困難な状況であっても、祖父は文化の価値を信じ、その価値を伝えるために最善を尽くしました。

こうして残されたポストカードは、当時の祖父の思いと、その思いを形にするための技術を現代に伝える貴重な資料です。時折、こうした資料に触れることで、私は祖父の背中を見ながら、「自分がこれから何を残していくべきか」を考えさせられます。そして、それが紅型の未来を形作る指針となっています。

祖父が残した「どれだけ時代や環境が困難であっても、手に取る人にとってそれは関係のないものだ」という言葉。沖縄の自然や文化そのものを表現する紅型を、次の世代へどう繋いでいくか。その課題と向き合いながら、私もまた仕事に取り組んでいきたいと思います。

公式ホームページでは、紅型の歴史や伝統、私自身の制作にかける思いなどを、やや丁寧に、文化的な視点も交えながら発信しています。一方でInstagramでは、職人の日常や工房のちょっとした風景、沖縄の光や緑の中に息づく“暮らしに根ざした紅型”の表情を気軽に紹介しています。たとえば、朝の染料作りの様子や、工房の裏庭で揺れる福木の葉っぱ、時には染めたての布を空にかざした一瞬の写真など、ものづくりの空気感を身近に感じていただける内容を心がけています。

紅型は決して遠い伝統ではなく、今を生きる私たちの日々とともにあるものです。これからも新しい挑戦と日々の積み重ねを大切にしながら、沖縄の染め物文化の魅力を発信し続けていきたいと思います。ぜひInstagramものぞいていただき、工房の日常や沖縄の彩りを一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。

城間栄市 プロフィール昭和52年(1977年)、沖縄県生まれ。

城間びんがた工房十五代・城間栄順の長男として育つ。

学歴・海外研修

  • 平成15年(2003年)より2年間、インドネシア・ジョグジャカルタ特別州に滞在し、バティック(ろうけつ染)を学ぶ。
  • 帰国後は城間びんがた工房にて、琉球びんがたの制作・指導に専念。

受賞・展覧会歴

  • 平成24年:西部工芸展 福岡市長賞 受賞
  • 平成25年:沖展 正会員に推挙
  • 平成26年:西部工芸展 奨励賞 受賞
  • 平成27年:日本工芸会 新人賞を受賞し、正会員に推挙
  • 令和3年:西部工芸展 沖縄タイムス社賞 受賞
  • 令和4年:MOA美術館 岡田茂吉賞 大賞 受賞
  • 令和5年:西部工芸展 西部支部長賞 受賞

主な出展

  • 「ポケモン工芸展」に出展
  • 文化庁主催「日中韓芸術祭」に出展
  • 令和6年:文化庁「技を極める」展に出展

現在の役職・活動

  • 城間びんがた工房 十六代 代表
  • 日本工芸会 正会員
  • 沖展(沖縄タイムス社主催公募展)染色部門 審査員
  • 沖縄県立芸術大学 非常勤講師

プロフィール概要

はじめまして。城間びんがた工房16代目の城間栄市です。私は1977年、十五代・城間栄順の長男として沖縄に生まれ、幼いころから紅型の仕事に親しみながら育ちました。工房に入った後は父のもとで修行を重ねつつ、沖縄県芸術祭「沖展」に初入選したことをきっかけに本格的に紅型作家として歩み始めました。

これまでの道のりの中で、沖展賞や日本工芸会の新人賞、西部伝統工芸展での沖縄タイムス社賞・西部支部長賞、そしてMOA美術館の岡田茂吉賞大賞など、さまざまな賞をいただくことができました。また、沖展の正会員や日本工芸会の正会員として活動しながら、審査員として後進の作品にも向き合う立場も経験しています。

私自身の制作で特に印象に残っているのは、「波の歌」という紅型着物の作品です。これは沖縄の海を泳ぐ生き物たちの姿を、藍型を基調とした布に躍動感をもって表現したものです。伝統の技法を守りつつ、そこに自分なりの視点や工夫を重ねることで、新しい紅型の可能性を切り拓きたいという思いが込められています。こうした活動を通して、紅型が沖縄の誇る伝統工芸であるだけでなく、日本、そして世界に発信できるアートであると感じています。

20代の頃にはアジア各地を巡り、2003年から2年間はインドネシア・ジョグジャカルタでバティック(ろうけつ染)を学びました。現地での生活や工芸の現場を通して、異文化の技術や感性にふれ、自分自身の紅型への向き合い方にも大きな影響を受けました。伝統を守るだけでなく、常に新しい刺激や発見を大切にしています。

最近では、「ポケモン×工芸展―美とわざの大発見―」など、世界を巡回する企画展にも参加する機会が増えてきました。紅型の技法でポケモンを表現するというチャレンジは、私自身にとっても大きな刺激となりましたし、沖縄の紅型が海外のお客様にも響く可能性を感じています。

メディアにも多く取り上げていただくようになりました。テレビや新聞、ウェブメディアで工房の日常や制作現場が紹介されるたびに、「300年前と変わらない手仕事」に込めた想いを、多くの方に伝えたいと強く思います。