「日曜日は父と市場ぶらり――びんがた工房、島暮らしの一コマ」
2025.08.05
――びんがたと暮らし、父と歩いた一日――
皆さんこんにちは。
このコラムを訪れてくださるみなさんが、びんがたという伝統や、沖縄の工房の空気に興味や好奇心を持ち続けてくださることに、心から感謝しています。
皆さんのその好奇心こそが、私たち作り手の挑戦を支える原動力です。
今日は、最近のある日曜日に父と一緒に那覇市泊(とまり)の「いゆまち市場」へ出かけたエピソードをお話ししたいと思います。
家族の何気ない日常のひとコマですが、そこにはびんがた工房の歴史や、沖縄という土地に根差した暮らし方、そして現代まで続く島人(しまんちゅ)の知恵と誇りが、静かに息づいています。


■ 終戦直後、びんがた工房の“生きるための仕事”
今でこそ、びんがたは沖縄を代表する伝統工芸の一つとして、たくさんの方に愛される存在となりました。しかし、私の父――工房の15代目が若かりし頃、終戦直後の沖縄は想像を絶する厳しい時代でした。
焼け野原となった島、足りない食料、そして経済もままならない中で、びんがた染めだけで家族や職人を養うことは非常に困難だったのです。
安謝という地域は、私の父が若い頃によく釣りに通っていた思い出の場所でもあります。
当時は、工芸の仕事だけで家族の暮らしを支えるのは難しく、父や祖父たちは港や海岸で魚釣りをし、その魚を持って農家さんと物々交換をしたのです。
釣った魚は、そこでお芋や野菜などと物々交換しながら、日々の食卓を工夫していたのです。
今では考えられないような、地域の人同士の助け合いや温かいつながりが、ごく自然にあった時代。
実はこの安謝という場所、高校生の頃の私は、友達とよく釣りに通ったお気に入りのスポットでした。今でこそモノレールの儀保駅から南へ環状線を下ると工場や倉庫が広がっていますが、道を右に曲がった先にはテトラポットが並ぶ海が広がっています。一見、工場団地 倉庫団地の中の海はあまり美しく見えないかもしれませんが、実は潮通しがよく、サンゴもたくさん生えていて、熱帯魚が舞うほどの自然豊かな海なのです。
高校時代の私は、夏になるとほぼ毎日のようにその海へ通い、サザエや貝を拾ったり、テトラポットの隙間で火を起こして、釣った魚や貝を焼いて食べたり――そんな素朴で楽しい時間を過ごしていました。不思議なことに、父も同じ場所で同じような遊びをしていたそうです。全く教えてもらったことはなかったのに、父と同じ景色を見て、同じ体験をしていたことを知った時、何とも言えない不思議なつながりを感じました。
父が通っていたのは、終戦からまだ間もない頃。話を聞くと、当時はダイナマイトで魚を獲るような、今では考えられない方法も使われていたとか。それでも父のエピソードには、不思議と悲壮感や苦しさはなく、どこか明るく、たくましい前向きさが溢れていました。
例えば、「米軍の靴紐が釣り道具として最高だった」という話。強い魚がかかった時でも、靴紐のクッション性がちょうど良くて、魚の強い引きにも負けなかったとか。海岸線で膝まで海に浸かり、カニやタコを餌に釣りをしていると、その餌を狙ってまた別の生き物が集まってくる――そんな話を聞くと、父の時代の夏の日差しや潮の香りまで伝わってくるようです。
復興の時代、厳しい時代背景があったはずですが、父が語る安謝の海の話は、なぜかいつも楽しげで、聞いている私も思わずワクワクしてしまいます。今思えば、その時代を生き抜いた人たちのたくましさや、自然とともにあった沖縄の暮らしぶりが、父の言葉の中に生きていたのだと思います。
ちなみに、今もこの安謝の海は変わらず自然豊かです。工場地帯の一角でありながら、サンゴも熱帯魚も元気に生きていて、私にとっては大切な原風景のひとつです。父から私へ、そしてまた次の世代へ――そんな沖縄の自然や思い出が、静かに流れていくのを感じます。
けれども、時代は変わりました。
父も、晩年は「生活のための釣り」ではなく、純粋に「魚を見ること」「市場を歩くこと」を楽しむようになりました。
■ 91歳の父と歩いた、日曜の市場
そんな父が「マグロ見に行こう」と声をかけてきたのは、ある日曜日のこと。
日曜の午前、私は工房で段取りをしていましたが、父の一言でふと思い立ち、二人で「いゆまち市場」まで出かけることにしました。
市場の賑わいは、朝の8時ごろが最高潮。地元の人々や観光客、外国人の姿も多く、活気に溢れています。
私たちが訪れたのは昼近く、少し落ち着いた頃合いでした。それでも、市場にはたくさんの魚が並び、威勢の良い声と新鮮な海の香りが充満しています。
父は、91歳とは思えない足取りで市場の中を歩き、ひとつひとつの魚をじっくり観察しています。その背中をこっそり写真に収めながら、私は「やっぱり昔の人はすごいな」と、息子ながら心の中で感心していました。
父は魚の鮮度、目の輝き、身の締まり具合、季節ごとの美味しさを見分けながら、店主と短い会話を交わします。
「これは脂がのってる」「この時期ならこの魚がおすすめ」――魚を選ぶ目は、まさに職人そのものです。
■ 市場で思い出す「家族」と「伝統」の意味
私自身、こうして父と並んで市場を歩くことは、日常の中のごく小さな出来事かもしれません。
けれども、親子二人で過ごすこうした時間が、工房の今と未来、そしてびんがたの精神を育んできたのだと思います。
思えば、私が小さかった頃、父と一緒に市場を歩いたり、魚を選んだりしたことがいくつも思い出されます。
父が魚を選ぶ手つきは、工房で布を選ぶ時の慎重さと同じ。市場で魚を見極める目は、びんがたの色や柄を決める職人の目とつながっています。
時代が変わり、暮らしが便利になっても、こうした「家族の営み」「日常の所作」こそが、伝統の根っこを支えているのかもしれません。
■ びんがたに込める想い、受け継ぐ勇気
工房の仕事も、家族の暮らしも、毎日の小さな積み重ねの中にあります。
びんがたは一朝一夕で完成するものではなく、染める人、支える人、使う人――たくさんの手と想いのリレーで今までつながってきました。
父と歩いた市場で感じたのは、「生きる」ということの原点。
日々を生き抜く知恵と工夫。困難な時代を乗り越えた人の背中。そして、どんなに時代が変わっても変わらない、家族の温かさ、日常の豊かさ――それこそが、びんがた工房の精神であり、私たちが大切にしていきたい価値なのだと、あらためて思います。
そして、これからのびんがた工房をどう守り、どう伝えていくのか。その問いは、私自身にも日々投げかけられています。
「伝統」とは、決して過去のものではなく、今この瞬間も誰かの日常の中で生きているものです。
■ 最後に――皆さんとともに
このように、びんがた工房の日々や島の暮らしは、決して派手なものではありません。
地味で素朴で、時には不器用なほど“人間くさい”営みの中に、長い歴史と伝統のすごみが宿っています。
市場で魚を選ぶ父の背中、日曜日の昼下がりに並んで歩いたあの日の風景。
それは、びんがたの色にも、図案にも、工房の空気にも、確かに息づいているものです。
皆さんが、このコラムを通して少しでも沖縄のびんがたや工房の日常に興味を持ち続けてくださったなら、それは私たち職人にとって、何よりの喜びです。
これからも、地元の風景や工房の物語、家族の時間や伝統の技を、丁寧に、素直に、そして未来へつなぐために語り続けていきたいと思います。
本日もご覧いただき、誠にありがとうございました。
どうぞ今後とも、温かく見守っていただけますと幸いです。


公式ホームページでは、紅型の歴史や伝統、私自身の制作にかける思いなどを、やや丁寧に、文化的な視点も交えながら発信しています。一方でInstagramでは、職人の日常や工房のちょっとした風景、沖縄の光や緑の中に息づく“暮らしに根ざした紅型”の表情を気軽に紹介しています。たとえば、朝の染料作りの様子や、工房の裏庭で揺れる福木の葉っぱ、時には染めたての布を空にかざした一瞬の写真など、ものづくりの空気感を身近に感じていただける内容を心がけています。
紅型は決して遠い伝統ではなく、今を生きる私たちの日々とともにあるものです。これからも新しい挑戦と日々の積み重ねを大切にしながら、沖縄の染め物文化の魅力を発信し続けていきたいと思います。ぜひInstagramものぞいていただき、工房の日常や沖縄の彩りを一緒に楽しんでいただけたら嬉しいです。

城間栄市 プロフィール昭和52年(1977年)、沖縄県生まれ。
城間びんがた工房十五代・城間栄順の長男として育つ。
学歴・海外研修
- 平成15年(2003年)より2年間、インドネシア・ジョグジャカルタ特別州に滞在し、バティック(ろうけつ染)を学ぶ。
- 帰国後は城間びんがた工房にて、琉球びんがたの制作・指導に専念。
受賞・展覧会歴
- 平成24年:西部工芸展 福岡市長賞 受賞
- 平成25年:沖展 正会員に推挙
- 平成26年:西部工芸展 奨励賞 受賞
- 平成27年:日本工芸会 新人賞を受賞し、正会員に推挙
- 令和3年:西部工芸展 沖縄タイムス社賞 受賞
- 令和4年:MOA美術館 岡田茂吉賞 大賞 受賞
- 令和5年:西部工芸展 西部支部長賞 受賞
主な出展
- 「ポケモン工芸展」に出展
- 文化庁主催「日中韓芸術祭」に出展
- 令和6年:文化庁「技を極める」展に出展
現在の役職・活動
- 城間びんがた工房 十六代 代表
- 日本工芸会 正会員
- 沖展(沖縄タイムス社主催公募展)染色部門 審査員
- 沖縄県立芸術大学 非常勤講師
プロフィール概要
はじめまして。城間びんがた工房16代目の城間栄市です。私は1977年、十五代・城間栄順の長男として沖縄に生まれ、幼いころから紅型の仕事に親しみながら育ちました。工房に入った後は父のもとで修行を重ねつつ、沖縄県芸術祭「沖展」に初入選したことをきっかけに本格的に紅型作家として歩み始めました。
これまでの道のりの中で、沖展賞や日本工芸会の新人賞、西部伝統工芸展での沖縄タイムス社賞・西部支部長賞、そしてMOA美術館の岡田茂吉賞大賞など、さまざまな賞をいただくことができました。また、沖展の正会員や日本工芸会の正会員として活動しながら、審査員として後進の作品にも向き合う立場も経験しています。
私自身の制作で特に印象に残っているのは、「波の歌」という紅型着物の作品です。これは沖縄の海を泳ぐ生き物たちの姿を、藍型を基調とした布に躍動感をもって表現したものです。伝統の技法を守りつつ、そこに自分なりの視点や工夫を重ねることで、新しい紅型の可能性を切り拓きたいという思いが込められています。こうした活動を通して、紅型が沖縄の誇る伝統工芸であるだけでなく、日本、そして世界に発信できるアートであると感じています。
20代の頃にはアジア各地を巡り、2003年から2年間はインドネシア・ジョグジャカルタでバティック(ろうけつ染)を学びました。現地での生活や工芸の現場を通して、異文化の技術や感性にふれ、自分自身の紅型への向き合い方にも大きな影響を受けました。伝統を守るだけでなく、常に新しい刺激や発見を大切にしています。
最近では、「ポケモン×工芸展―美とわざの大発見―」など、世界を巡回する企画展にも参加する機会が増えてきました。紅型の技法でポケモンを表現するというチャレンジは、私自身にとっても大きな刺激となりましたし、沖縄の紅型が海外のお客様にも響く可能性を感じています。
メディアにも多く取り上げていただくようになりました。テレビや新聞、ウェブメディアで工房の日常や制作現場が紹介されるたびに、「300年前と変わらない手仕事」に込めた想いを、多くの方に伝えたいと強く思います。