謝罪から始まった本当の継承の瞬間【家族記憶】

父から受け継いだもの ~謝罪と感謝の瞬間~

いつも城間びんがた工房、そして紅型の世界に関心を寄せていただき、誠にありがとうございます。
紅型という伝統を通じて、琉球の文化や想いが少しずつ広がっていくことに、私たちは日々大きな喜びと感謝を感じています。

皆さまの温かなご支援や好奇心が、私たちの新たな挑戦への原動力となり、日々のものづくりに確かな力を与えてくれています。
この場を借りて、心より御礼申し上げます。

私が工房を引き継いだのは、35歳のときでした。インドネシアでの染め物修行を2年間終えて帰国し、それから5年の歳月を経ての決断でした。

伝統工芸の世界では、35歳での継承はかなり若い方に入ります。実際、私の父も15代目を53歳で継いでおり、家の中でも「だいぶ早いな」と感じた人もいたと思います。それでも私には、ひとつの強い願いがありました。

「父が現役の職人として元気に動けるうちに、隣で一緒に仕事をしたい。」

この想いが、私の中で大きな原動力となりました。ただ単に役割を引き継ぐのではなく、父の背中を見ながら、仕事の所作や心のあり方を肌で感じられるうちに、工房の未来に向けた舵取りを始めたいと思ったのです。

伝統工芸を守り続けていくには、技術だけでなく、先人たちが何を大切にしてきたのかという“心”を理解することが欠かせません。だからこそ、段階的に責任を引き継いでいく「ソフトランディング」の形での経営移行を目指しました。技術とともに受け継ぐべき精神を、父から直接学ぶことができたことは、今でも大きな財産だと感じています。


父から受け継いだもの 〜謝罪と感謝の瞬間、その先に見えた未来〜

伝統の現場に生まれて

私は、1977年7月に沖縄県那覇市の首里にある米軍関係の病院「メディカルセンター」で生まれました。人生で初めて耳にしたのは英語だった、という少しユニークなエピソードがあります。母は沖縄最北端・伊平屋島の出身で、自然の豊かさと人のあたたかさに育まれた女性でした。当時としては先進的な育児法を取り入れ、生後3か月の私に豆乳を与えていたという話も、今となっては懐かしい思い出です。

私の実家には工房があり、生活のすぐ隣には常に「ものづくりの現場」がありました。父が図案を描く机の膝の上で眠ったり、染料の匂いを感じながら遊んだり、シャリシャリという型紙の音が耳に残っていたり。そんな記憶が、私の感覚の奥底に根付いています。工芸は、私にとって仕事である前に“生活そのもの”であり、“家族の風景”でもありました。


笑い声が響く唯一の工房

私が通っていた城西小学校から工房までは歩いて通える距離で、その道すがらいくつかの染め物工房が点在していました。多くの工房は張り詰めた空気に包まれていて、外から笑い声など聞こえることはほとんどありませんでした。

しかし、城間びんがた工房に近づくと、遠くからでも聞こえてくる笑い声がありました。真剣勝負の職人の世界にあって、私の育った工房だけは例外のように、常に笑顔と談笑がありました。その雰囲気は、子どもの私に安心感を与えてくれましたし、大人になった今もなお、私のものづくりや人づくりの根幹にある“空気”として受け継がれています。


自由奔放だった青春、家族の受容

高校生から20代前半にかけて、私はとても自由に生きていました。金髪のアフロに13個のピアス。「ゴールデンパセリ」なんてあだ名をつけられた時期もあります。

工芸家の家に生まれ、代々の看板を背負う立場にいながら、よくここまで好き勝手に生きられたなと、今振り返っても不思議に思います。しかし、家族は私を否定せず、温かく見守ってくれました。私の中で「家族=安全な場所」という感覚が育ったのは、その包容力ある空気があったからこそです。

その経験が、今の工房の在り方にも影響しています。自由であっていい。個性があっていい。けれど、根底には“受け継がれるもの”が確かにある。そんな空気を工房に宿らせたいと、日々考えています。


インドネシアで染めに出会い直す

そんな私が大きく人生を見直すきっかけとなったのが、20代半ばのインドネシア留学でした。バティックの染めを学びに行った2年間、文化も価値観も違う土地で、私は“ものを染める”という行為の意味を深く考えるようになりました。

ただ布に色を付けるのではなく、その色に“意味”が宿っている。模様一つにしても、誰かの祈りや季節、社会へのまなざしが含まれている。そうした精神性に触れることで、私の中の「染め」への向き合い方が根本から変わりました。

帰国後、結婚を経て、35歳で工房を引き継ぐ決意を固めました。それは、父が元気なうちに“同じ現場で並んで仕事をする”という、非常に貴重な時間を持ちたいという思いからでした。

2007年頃 インドネシアの職人に沖縄の写真を見せている。

工房を未来へ繋ぐということ

謝罪と感謝、そして気づき

工房を継いで5年ほど経った頃は、職人としての楽しさと経営者としての難しさの間で揺れ動きながらも、少しずつ軌道に乗り始めていた時期でした。創造的なものづくりの喜びを感じつつ、組織の運営や職人たちの生活を守る責任の重さも実感していたのです。

そんなある日、先輩職人から「工房の調子はどう?」と尋ねられ、「順調です」と答えた私に対し、意外な言葉が返ってきました。
「まずは、栄順先生(父)に謝ってみたらどうだ?」

当初は意味がわからなかったのですが、心に引っかかるものがあり、翌朝、父に改まって頭を下げることにしました。「今までごめんなさい」という言葉を口にした瞬間、不思議なくらい感情があふれ、涙とともに自然と「ありがとうございました」という感謝の言葉も出てきました。

父は「それがわかるなら、お前は大丈夫だ」とだけ言い、いつも通り黙々と作業を続けました。その一言に、私がずっと抱えていた何かがすっと解放されたように感じたのです。


受け継いだ希望と未来への決意

父は9歳で戦争を経験し、苦労しながら家族を支え、琉球の文化を守り続けてきた人です。そんな父に謝罪と感謝を伝えたとき、私はただ「工房を引き継ぐ」ということ以上の意味を受け取りました。技術だけでなく、その技術に宿る先人たちの思いや覚悟までも受け継ぐ使命が、自分の中に芽生えたのを感じました。

伝統工芸は、単に作品を残すだけではなく、そこに込められた歴史と想いを次の世代へつなげる営みでもあります。私が謝罪と感謝を伝え、父が「大丈夫だ」と言ったあの一瞬は、私にとって“父の思い”も含めたすべてを受け取った瞬間だったのかもしれません。

これからも、父が胸に秘めてきた希望や、琉球が育んできた文化の尊さを大切にしながら、工房を未来へつなげる努力を続けていきたいと思います。どうか今後とも、私たちが紡ぐ「琉球びんがた」の世界を、見守っていただければ幸いです。

城間栄市プロフィール 

紅型に、時間と祈りを宿す

私は紅型を、単なる染色技法ではなく、
沖縄という土地で積み重ねられてきた時間や祈り、
そして暮らしの感覚を受け止める「文化の器」だと捉えています。

布に色を置くという行為の奥には、
自然へのまなざし、人への想い、
そして生き方そのものが静かに重なっています。
その感覚を、できるだけ正直に、今の時代の言葉と形で手渡していくこと。
それが、私が紅型と向き合い続ける理由です。


生い立ちと紅型との距離

1977年、沖縄県生まれ。
城間びんがた工房十五代・城間栄順の長男として育ちました。

幼い頃から、工房は日常の延長線上にありました。
染料の匂い、布を干す風景、
職人たちの背中や交わされる何気ない会話。
それらは特別なものというより、生活の一部として、自然に身の回りにありました。

本格的に工房に入り、父のもとで修行を始めたのは、
沖縄県芸術祭「沖展」への初入選をきっかけとしています。
紅型を「受け継ぐもの」としてではなく、
自分自身の人生として引き受ける覚悟が、
そのとき初めて定まったように思います。


外の世界で学んだこと

2003年からの約2年間、
インドネシア・ジョグジャカルタに滞在し、
バティック(ろうけつ染)を学びました。

異なる気候、異なる宗教観、異なる生活のリズム。
その中で工芸がどのように根づき、人々の暮らしと結びついているのかを、
現地での生活を通して体感しました。

この経験は、
「伝統を守ること」と「変化を受け入れること」は、
決して相反するものではない、
という確信を私にもたらしました。


受賞・出展についての考え方

これまで、沖展、日本工芸会、西部伝統工芸展、
MOA美術館岡田茂吉賞など、
いくつかの評価や賞をいただいてきました。
また、文化庁主催の展覧会や、
「ポケモン工芸展」など、国内外に向けた企画展にも参加する機会を得ています。

こうした節目を迎えるたびに、
私自身の評価以上に、
紅型という存在を知ってもらう機会が広がっていくことに、
大きな喜びを感じています。

一つの作品が、
「沖縄にはこういう染め物があるのですね」
という小さな気づきにつながる。
その積み重ねこそが、紅型の未来を静かに支えていくのだと感じています。


制作について

制作では、伝統的な技法を大切にしながらも、
その時代、その感覚にしか生まれない表現を探り続けています。

代表作の一つである紅型着物《波の歌》では、
沖縄の海を泳ぐ生き物たちの姿を、
藍色を基調に、リズムと奥行きを意識して表現しました。

新しさを声高に主張するのではなく、
布に触れた人が、
どこか懐かしさや安心感を覚えるような仕事を目指しています。


今、そしてこれから

現在は、
城間びんがた工房十六代代表として制作を行いながら、
日本工芸会正会員、沖展染色部門審査員、
沖縄県立芸術大学非常勤講師としても活動しています。

これらの役割もまた、
紅型を「閉じた世界」に留めず、
次の世代や、まだ出会っていない人たちへと
静かにつないでいくための一つの手段だと考えています。

これからも、
展覧会やさまざまな協働を通して、
紅型という文化に触れる“入り口”を、少しずつ増やしていきたい。
それは広げるためというより、
必要な場所に、必要なかたちで、そっと灯りを置いていく
そんな感覚に近いものです。


おわりに

公式ホームページでは、
紅型の歴史や背景、制作に込めた考えを、
少し丁寧に言葉にして残しています。

Instagramでは、
職人の日常や工房の空気、
沖縄の光や緑の中で息づく紅型の表情を、
より身近な距離感でお伝えしています。

どちらも、紅型を「特別なもの」にするためではなく、
今を生きる私たちの暮らしと、
静かにつながる存在として感じていただくためのものです。

この場所を訪れてくださったことが、
紅型との、ささやかな出会いとなれば幸いです。

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