守り神の微笑み 〜工房に息づくシーサーの物語〜
2025.01.27
シーサーとともに生きる工房の歴史——紅型と首里の物語
シーサー、シーサー!
嬉しさぁ〜 楽しいさぁ〜 優しいさぁ〜。こんにちは、城間びんがた工房の城間です。今日は、私たちの工房の敷地内にいる シーサーたち をご紹介したいと思います。


私たち 城間びんがた工房 では、基本的に日常的な見学の受け入れを行っていません。それは、制作の環境を何よりも大切にしている からです。加えて、工房が観光地・首里に位置しているため、もしふらりと訪れた方が伝統工芸に関心がない場合、お互いにとって Win-Winの関係にならない という事情もあります。
とはいえ、「紅型を知ってもらいたい」「工房の環境や雰囲気を感じてもらいたい」という想いは常にあります。そこで今回は、紅型そのものとは直接関係ないかもしれませんが、私たちが日々過ごしている環境や、そこにいるシーサーたち にスポットを当てたいと思います。

紅型工房と首里の歴史
私たちの工房がある 首里山川町 ですが、実は琉球王国時代からこの場所にあったわけではありません。戦前の工房は 首里公民館のある「当蔵」 にありました。しかし、戦争で首里の街は壊滅的な被害を受け、私たちの家や工房も跡形もなく消えてしまいました。
戦後、祖父の代になり、現在の 首里山川町 に工房を移しました。それから 約70年、この場所で紅型を染め続けています。当時の職人たちは、まず工房の基礎作りから始めなければなりませんでした。石を積み、井戸を掘り、木を切る——まるで建築職人のような作業 だったといいます。その中で、祖父の指示で シーサー作りも行われたのです。
職人たちが作ったシーサー
昔の家では、大工が家を建てた後に 余った材料でシーサーを作り、屋根に乗せる という風習がありました。それが 「漆喰シーサー」 と呼ばれるものです。漆喰は、赤瓦の隙間を埋めるために使われた粘土のようなもので、これを使って家の守り神としてシーサーを作ったのです。
祖父は、この考え方を応用し、工房の職人たちにも 「シーサーを作れ」 と言いました。当時の職人たちは紅型を染める技術を持っていましたが、シーサー作りには慣れていません。困り果てた職人に対し、祖父は 「自分の顔を見せて作れ」 と言ったそうです。
今の時代では考えられないようなエピソードですが、戦後復興の激しい時代の中で生まれた、人間味あふれるユーモアと柔軟な発想 が感じられる話です。
シーサーが語りかけるもの
こうして作られたシーサーたちは、今も工房の敷地内に点在し、訪れる人々や職人たちを静かに見守っています。彼らの表情はどこか 愛嬌があり、優しさがあり、そして力強さを感じさせるもの です。
戦後の激動の時代を生き抜いた職人たちが、シーサーに込めた思い。その時代背景を考えると、シーサーたちは単なる置物ではなく、希望や粘り強さの象徴 のように思えます。
そして、彼らの表情を眺めていると、「どんな時代でも、柔軟に、前向きに、そしてユーモアを忘れずに生きていくことの大切さ」を語りかけてくるように感じるのです。
もしかしたら、写真には映りきらなかったシーサーもいるかもしれません。ですが、今回撮影できたものをここにご紹介します。ぜひ、彼らの表情に宿る物語を感じ取っていただけたら嬉しいです。















城間栄市 プロフィール
- 昭和52年 沖縄県に生まれる。城間びんがた工房15代 城間栄順の長男。
- 平成15年(2003年) インドネシア・ジョグジャカルタ特別州にて2年間バティックを学ぶ。
- 平成25年 沖展正会員に推挙。
- 平成24年 西部工芸展 福岡市長賞 受賞。
- 平成26年 西部工芸展 奨励賞 受賞。
- 平成27年 日本工芸会新人賞を受賞し、正会員に推挙される。
- 令和3年 西部工芸展 沖縄タイムス社賞 受賞。
- 令和4年 MOA美術館岡田茂吉賞 大賞を受賞。
- 令和5年 西部工芸展 西部支部長賞 受賞。
- 「ポケモン工芸展」に出展。
- 文化庁「日中韓芸術祭」に出展。
- 令和6年 文化庁「技を極める」展に出展。
現在の役職
- 城間びんがた工房 16代 代表
- 日本工芸会 正会員
- 沖展(沖縄タイムス社主催公募展)染色部門審査員
- 沖縄県立芸術大学 非常勤講師
- 沖縄大学 非常勤講師