伝統工芸のリアル ~泥水の甕と私の学び~

琉球藍に向き合った8年間 ~失敗から学んだこと~

藍染めは日本において、タデ藍、インド藍、そして琉球藍の3つの主要な藍植物によって支えられています。その中でも、沖縄の温暖な気候で育つ琉球藍は、地域に根付いた文化を色濃く映し出しています。私たち城間びんがた工房では、この琉球藍を使った染めを受け継ぎ、制作を続けています。しかし、藍染めを行う上で特に重要なのが「甕(かめ)」、すなわち藍液の管理です。

藍染めは、藍の状態を最良に保ちながら進める必要がありますが、これが非常に繊細であり、特に紅型の染色では難易度がさらに高まります。布に塗られる糊(もち米粉と糠粉でできています)は藍液に浸すとわずか5分ほどで溶け始めてしまうため、短時間で染色を終える技術が求められるのです。

母からの引き継ぎと8年間の失敗

私が母から甕の管理を任されたのは今から12~13年前のことです。しかし、その後の8年間は満足のいく染色がほとんどできませんでした。その理由を振り返ると、大きく3つの要因が挙げられます。

  1. 完全に任されるというスタイル
    母は「任せるならすべて任せる」という考え方の持ち主でした。管理を引き継いだ次の日からは、一切の手助けや確認を行わず、全責任を私に預けました。このため、最初はどこを基準にして管理すれば良いのかわからず、混乱しました。
  2. 擬人的なアドバイス
    母のアドバイスは「藍が疲れている」「元気がない」という、擬人化された表現が多く、具体的な数値や手順はほとんど伝えられませんでした。私は「水温が25度の場合は水飴を何グラム加えるべきか」といった具体的な指示を求めていたのですが、得られず試行錯誤を繰り返すことに。
  3. 「誰にも相談するな」という暗黙のルール
    当時の紅型の世界では、「家の技術を外に漏らしてはいけない」という考え方が根強くありました。そのため、母から「誰にも相談するな」と言われ、他の工房や専門家に意見を聞くことができませんでした。この孤立感が私をさらに追い詰め、試行錯誤の結果、400リットルの甕が「泥水の地獄」と化したこともありました。この失敗は、いまだに忘れられない体験です。

試行錯誤の中で見えた光

混乱のピークを迎えた時、私は信頼できる範囲で専門家や染色家、試験場の研究者に意見を求め始めました。学術的な情報や他の藍染めの実例を元に、少しずつ自分のやり方を見つけていきました。そして、母からの言葉や家の技術を否定するのではなく、それを基盤に新しい要素を組み合わせていく「編集」の作業が始まったのです。

この8年間は、決して簡単な時間ではありませんでした。毎年の藍の状態や季節の変化に対応する必要があり、一定のレシピを作ったとはいえ、微調整が常に求められました。しかし、その期間を通じて、紅型染めにおける基礎的な感覚と、次世代へ継ぐためのノウハウを蓄積することができました。

現在への影響と未来への展望

現在では、愛用する甕の状態を把握し、適切な管理ができるようになりました。この経験を通じて、伝統工芸の「技術」を次世代に正確に伝える重要性を再認識しました。

藍染めを通じて、紅型が持つ「色」や「記憶」を未来につなぐことが私の使命です。そして、失敗を乗り越えた経験が、これからの工房運営やものづくりにおいて大きな財産となると感じています。

城間栄市 プロフィール

  • 昭和52年 沖縄県に生まれる。城間びんがた工房15代 城間栄順の長男。
  • 平成15年(2003年) インドネシア・ジョグジャカルタ特別州にて2年間バティックを学ぶ。
  • 平成25年 沖展正会員に推挙。
  • 平成24年 西部工芸展 福岡市長賞 受賞。
  • 平成26年 西部工芸展 奨励賞 受賞。
  • 平成27年 日本工芸会新人賞を受賞し、正会員に推挙される。
  • 令和3年 西部工芸展 沖縄タイムス社賞 受賞。
  • 令和4年 MOA美術館岡田茂吉賞 大賞を受賞。
  • 令和5年 西部工芸展 西部支部長賞 受賞。
    • 「ポケモン工芸展」に出展。
    • 文化庁「日中韓芸術祭」に出展。
  • 令和6年 文化庁「技を極める」展に出展。

現在の役職

  • 城間びんがた工房 16代 代表
  • 日本工芸会 正会員
  • 沖展(沖縄タイムス社主催公募展)染色部門審査員
  • 沖縄県立芸術大学 非常勤講師
  • 沖縄大学 非常勤講師