びんがたの歴史

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紅型の発祥については、現在でもはっきりとした記録がなく、大体14、15世紀ごろと推定されています。その頃、中国は明の時代で、偉大な中華の伝統や慣習を復活させ、「唐・宋にならえ」という統治方針を全面的に打ち出していた時代でした。

三第皇帝永楽帝の頃には国も安定し、生活が豊かになり、中国市場でも最も輝かしい時代になったのを機に、大航海時代が始まった頃でもあります。

以上の時代背景からしても、大陸と琉球の交易が盛んになり、大陸からは良質なシルクが、琉球からはシルクに染め上げた「紅型」が盛んにやり取りされていたのかもしれません。

沖縄の心の布

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紅型の代表的な色である黄色は、中国では高貴な色にあたる事から、中国との密接な関係も裏付けられます。

詳細な文献がない今でも、中国の歴史博物館には琉球の紅型が確かに存在します。この事は、紛れもなく日本本土より先に大陸へ紅型が渡った証拠になると考えます。

また中国以外にも、東南アジアなどとの海外交易により、インドやジャワ更紗の技法を取り入れ、本土の友禅染めなどの技法などを吸収し、沖縄独特の気候風土により培われたのが紅型です。

以来、琉球王府の保護の下に、中国の型紙の技法、京友禅の手法も取り入れられるなど、あらゆる東洋文化の枠を吸収し、南の島独特の神秘的な染物となり、「東洋花布」として珍重され貴重な交易品となりました。

琉球王朝時代、王家、王族、士族のみ着用が許された紅型染めの着物は、その工程にも王族の監視が厳しく、特に貴重品であるシナ朱(コチニール)などの使用制限が厳しかったそうです。

また、士族、王族は、その型紙、デザインを自分独自のオリジナルにし、複製を作らさない為にも、一度彫って使用した型紙は焼却処分させたそうです。(なんともったいない・・・

琉球王朝とびんがた

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紅型の三大宗家として名声を馳せたのは、沢岻家を筆頭とした知念家、城間家でした。特に沢岻家は卓越した技を誇り、当時の王族だった尚家の庭である、龍潭池(りゅうたんいけ)の水の使用を許されたほどであったといいます。

現在の那覇市首里は首里城で有名ですが、王朝時代は紛れもなく琉球王国の首都でありました。そこでは良質の水が豊富で紅型の製作に適した環境であったのと、紅型職人が王家に多大な庇護を受けていた為、多くの職人がそのお膝元で工房を構える事ができていたと考えられます。

現在でも那覇市首里には紅型工房が多く存在します。まさに「紅型」の産地といえます。

びんがたの危機と復興

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戦後の悲劇的な混乱の中、あらゆる素材を駆使し、紅型の復興に情熱を傾け続けた人物が、城間びんがた工房14代目の故 城間 栄喜氏でした。

栄喜氏は戦後の混乱の中、紅型の重要な素材の一つである型紙の収集、拳銃の薬きょうの先端部分を使用した自作の筒での制作活動などで、戦後の紅型復興に精力的に努め、着物などの高価な作品だけでなく、安価で手に入れやすいネクタイ、ハンカチ、各種カードなどの制作を米兵向けに手がけ、紅型の復興、普及に努めました。

終戦直後の米軍支配下の際、東洋的なクリスマスカード、ネクタイなどが米兵に人気があったそうです。

しかし、その生活は極度に貧しく、廃品を拾いながら紅型に使えそうな材料を集め、食料は海から自力で調達せざるを得ない程だったといいます。生活苦からこの頃も、紅型を廃業する仲間があとを断たない中、栄喜氏は戦火をかろうじて免れた「紅型の型紙」収集のため本土まで出向いたそうです。鎌倉芳太郎氏が、廃業していく紅型職人から譲り受け、収集していた型紙を、再度沖縄の紅型復興の為、譲ってもらうのが本土渡航の目的の一つだったそうです。

代々続く「職」の復興、「沖縄の魂」の復興の為、貧しいながらも海を渡り、ひたすらに守り続けられたこそ存在するのが現在の紅型です。

こうした歴史的な偉業が行政ではなく、志ある沖縄の人々の手で成し得たというのも驚きです。

紅型復興の立役者

城間びんがた工房 14代目 城間 栄喜氏

明治41年(1908年)代々紅型を家業とする城間家の長男として生まれる。

廃藩置県後、家業の傾きが著しくなり、借金の肩代わりにやむなく石垣へ年季奉公に出される。栄喜氏12歳の頃である、多感で成長期にあるそれから8年間を、家族、紅型と離れた、現代では想像を絶する青春時代を送る。

昭和3年3月栄喜20歳、奉公を終えた栄喜氏はすぐに家業を継ぐが、この年の12月父、栄松死去。幼い頃に家業を目にしていたとはいえ、実質師からの指導は9ヶ月足らず、頼りの教材は父の残した古型紙と作品のみ、ここからは独学の日々であった。

染料等購入の為大阪にいた際、戦争勃発にて徴兵、長崎県にて終戦を迎える。その際、自身の長男(栄順)、次男を疎開先であった熊本にて探し出す。

昭和22年頃長男次男とともに帰沖、そこで、妻と三男の戦死を知ることになる。

帰沖後すぐに首里に住まいを構えるが、戦後の瓦礫の片付けからのスタートであった。戦後何もかもが荒廃し、生活もままならない状況下において、まず栄喜氏は福木の種を植えた。

古典紅型にはかかせない黄色の染料を生む木である。

しかし、実際使用できるのは樹齢100年以上の老木になってからである。100年後の紅型の為にとはいえ、戦後の混乱の中で、そうそう先を見越した偉人はいなかったであろう。

そのような最中、紅型の復興は続く、型紙は、壕から拾った軍用地図、瓦をすりつぶした粉や、米製の口紅は染料に、大判レコードは型置き際使用する「ヘラ」として加工代用し、メリケン粉の袋を生地とした紅型製作活動を始める。

着物などは、この荒廃した最中、着る人などいないことから、数々の新製品が生み出される事となる。ネクタイ、スカート、手提げ、テーブルクロス、ピアノかけ、など、伝統文化をうまく時代のニーズにのせる事で紅型の復興を計ったのであった。

その後、後に名を馳せる画家など、有志と共に紅型研究所を設立、現在の紅型の確立の礎を固めていった。

栄喜氏がその頃植えた福木は、現在も城間びんがた工房において、防風林として建物を守り、紅型の歴史を見つめ続けている。

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